遣らずの雨


勇次がふと目を覚ますと、いつ降り始めたか、しとしとと屋根を叩く雨の音がしていた。閉てた雨戸の隙から洩れ込む朝の光は弱々しく、灯りを落した寝間の中は薄暗い。
傍らに眠る秀が、ふと身動ぎをして、目覚める気配がした。
ゆっくりと気怠げに身を起こし、脱ぎ捨ててあった半纏を拾い上げ、肩に羽織る。そのまま手探りで、脱ぎ散らした衣類を拾い集め始めた。
「帰ぇるのかい」
有明行燈の仄かな明かりの中で、影としか見えない背中に声を掛けた。
「ああ」
秀は、振り向きもせず、短く応えた。
「雨が降ってる」
秀が、ふと手を止めた。
「そうだな」
溜め息のような声が、答える。秀が、乱れた髪に手を差し入れ、くしゃりとかき混ぜた。
「止むまで居なよ」
ちらりと、秀が振り返る。
「てめぇは、いつも、さっさと帰ぇるじゃねぇか」
勇次は、半身を起こし、秀の腕を掴んで引き寄せた。秀は抗うことなく、勇次の胸に倒れ込んだ。肩に掛けただけの半纏が、滑り落ちる。
「だから、今日ぐらいは、雨が止むまで居なよ」
艶のある声が耳を打ち、頬をつけた胸からは、声が直に響く。その心地よさに、秀はつと目を伏せた。
「このまま」
止まなければいい。そう言いかけて、秀は口を噤んだ。
そんなことは、口にできる筈もない。
「止まなけりゃ、いいのにな」
低く呟く勇次の声に、秀は、はっと目を開いた。身を起こし、顔を覗き込めば、目と目が絡み合う。
いつも、我を忘れてしまいそうになる程に、甘く優しく抱いておいて、朝になれば、いっそ素っ気ない程に、勇次はさらりと帰って行く。
いつも、置き去りにするくせに。
秀は、覆い被さるように、勇次の唇に唇を重ねた。互いに、貪るようなくちづけを繰り返す。
勇次の手が、秀の裸の肩を抱く。唇を重ねたまま、くるりと身体を入れ替えて、秀の身体を組み敷いた。
深くくちづけられて、秀は勇次の背に腕を廻し、縋るように肩に手を掛けた。


帰したくない。
帰りたくない。
いつも。
抱き合えば、離れ難く。それでも、朝になれば、互いに身を離さざるを得ない。
だから、今だけは。
もう少し。あと少しだけ。
せめて、この雨が上がるまで。




さあっと、土を叩く雨の音が、少し透かした窓の向こうに聞こえた。
秀は、槌を振るう手を、ふと止めた。顔を上げて、窓の隙間を斜めに過る雨を見る。
表では、長屋のかみさんたちが、突然の雨に大騒ぎしながら、大慌てで洗濯物を取り込みに走り回っている。
かみさん連中の、甲高く姦しいやり取りに、秀はちらりと笑って、やれやれとばかりに小さく頭(かぶり)を振った。
槌を握り直し、細工台の上の簪に目を戻す。
細やかな細工を施すには、周りの音も耳に入らないほどに、その作業に没頭しなければならない。
にもかかわらず、秀の心は、どこかゆらゆらとあらぬところを彷徨い始めていた。
共に時を過ごした後に、降る雨は。帰ろうとする者を、引き止めるかのように、降る雨は。
遣らずの雨…
だが、会うより先に降る雨は、訪ねてくる者の足を止めてしまう。
会いたい心を引き裂く雨に、いったいどんな名前をつければいいだろう。
秀は、小さく溜息をついた。
今夜は、もう勇次は来ないだろう。雨の中を会いに来るほどの仲でもない。
そもそも、いつ行くとも来るとも、約束したことなどない。互いに。
その程度の仲だ。そう、その程度の…
会いたい、などと思う方がどうかしている。
だが、会えないと思うほどに、会いたい想いは募る。
どうかしている。本当に。
秀は、想いを振り切るように頭を振り、小さく苦笑した。


ざあざあと傘を叩く雨音を聞きながら、秀は小さくため息を吐いた。
辻の向こうの三味線屋の表は、障子が閉てられており、もう日も暮れたというのに灯りも見えない。
女の処へでもしけ込んでいるのだろう。
そう思いながら、それでも立ち去り難く、秀はもう四半刻も、三味線屋の辻向かいの小店の軒下に佇んでいた。
いつしか雨脚も弱くなり、秀はまた一つため息を吐くと、傘を差し直して歩き出した。


重い足取りで長屋に帰り着いた秀は、自分の部屋から灯りが洩れているのを見て、はっと身体を強張らせた。
が、次の瞬間、詰めた息を静かに吐き出した。
もし役人や敵であれば、灯りを点けずに潜んでいる筈だ。
留守中に勝手に上がり込み、灯りを点けて待っているような図々しい人間と言えば、加代くらいのものだ。
足を速めた秀は、声も掛けずにガラリと障子を引き開けた。
「よう」
座敷の卓袱台の前に胡座をかいた勇次が、ちらりと笑みを浮かべた。
「遅かったな。届け物かい」
勇次が、呆気に取られて棒立ちになっている秀を、面白そうに眺めやる。
「・・・お前ぇ、何やって」
驚きのあまり、二の句を継げない秀を見て、勇次はくくっと笑った。
「一緒に飯でも食おうと思ってな」
勇次は、卓袱台から折詰めを持ち上げてみせた。
「瓢で、折に詰めてもらったんだよ」
瓢は、時折連れ立って料理と酒を楽しみに行く店の一つだ。
「突っ立ってないで、上がりなよ」
「誰のうちだと思ってんだよっ」
秀は、驚きと照れ臭さと嬉しさとがない交ぜになった心を隠すように、ぶっきらぼうに言うと、ぽたぽたと滴を落とす傘を障子戸の脇に立て掛けて、障子を閉めた。
水瓶から桶に水を汲み、上がり框に腰を下ろして、泥に汚れた足を洗う。
少し丸めたその背中を、勇次が優しく、どこか嬉しげに、笑って見つめていた。
「なあ、秀」
勇次が、徐ろに口を開いた。呼ばれて振り向いた秀に、にやりと笑いかける。
「お前ぇ、うちに行ってたんだろ。俺に会いに」
図星を指されて、秀の頬にさっと血が上る。
「・・・っ、な訳ねぇだろっ」
羞恥に、一瞬言葉に詰まった秀は、さっと立ち上がると、どすどすと足音を立てて板の間に上がった。
勇次が、その手を捉えて、ぐいと引いた。秀は、よろめいて勇次の傍らに片膝をついた。
勇次は、赤く染まった秀の耳に唇を寄せた。
「俺ぁ、お前ぇに会いに来たんだぜ」
注ぎ込まれる蕩けるような囁きが、甘美な毒のように、秀の身体を甘く痺れさせる。
「ん・・・」
背中に走るぞくぞくするような甘いざわめきに、秀はびくりと身を竦めた。
「秀」
駄目押しをするかのように、柔らかく呼ぶ勇次の声に、秀はきゅっと目を瞑った。
「会いたかったんだ」
秀は、一つ息を呑んで続けた。
「どうしても、お前ぇに会いたかった・・・」
「秀」
名を呼ばれて瞼を開けば、勇次の柔らかく笑んだ切れ長の眸が、秀の眸を覗き込んでいた。
「俺も、お前ぇに会いたかったんだよ、どうしても」




ぱらぱらと、雨が屋根を叩く。
布団の上に突っ伏していた秀は、ふと目を開き、傍らに横たわる勇次の顔を見た。
「また降り出したな」
眠っているとばかり思っていた勇次が、目を閉じたまま呟いた。
「ああ」
秀は、短く応えると、つと目を落とした。
屋根を叩く雨音が、少し強くなった。
「朝には―――」
止むだろう。そう言いかけて、秀は口を噤んだ。
たとえ、止まなくても。
この長屋では、勇次を引き留めることなどできはしない。朝の早い長屋の連中が目を覚まし、活動を始める前に、帰してしまわなければならない。
いつも。
まだ明けきらぬ薄闇の中、勇次は長屋を忍び出て行く。誰にも見咎めれられることのないように。誰から、加代に漏れるか知れないから。
雨の音が更に強くなった。全てを降り籠めてしまうかのように、雨粒が激しく屋根を叩く。
つと開いた勇次の切れ長の眸が、秀の横顔を見つめた。
勇次の手が、秀の腕を捉えた。はっと目を上げる秀を、引き寄せる。
仰向けになった勇次の胸の上に抱き寄せられて、秀は勇次を見下ろした。
「朝までにゃ、まだ間があるぜ」
そう言った勇次が、切り放しの柔らかな髪に指を差し入れ、秀を引き寄せた。束の間触れた唇を離し、秀の眸を覗き込む。
「まだ来もしねぇ朝のことなんか、考ぇるなよ」
勇次は、秀の背中を抱き、くるりと身体を入れ替えて、布団の上に引き締まった身体を組み敷いた。
「今は、俺のことだけ考えていなよ」
「勇次・・・」
秀の黒目がちの眸が、勇次の切れ長の眸を見上げた。勇次は秀の髪に指を絡め、唇を重ねた。
「ん・・・ふ」
貪るようなくちづけに応えながら、秀は勇次の背中に腕を廻した。しなやかな指が縋るように勇次の肩に食い込む。


このまま。
雨が、止まなければいい。
このまま。
愛しい男を、引き止めておけるならば…
[終]



2016.06.04


[Story]