Tearless

深い緑の森の中を、松田はゆっくりと歩いていた。どこから来て、どこへ行くともなく、森の中をさ迷い歩く。不思議とそれは悪い気分ではなかった。
都会の喧騒から逃れ、どこまでも続く森の中を歩いていくのは、意外に快く、松田の口元には微かな笑みさえ浮かんだ。澄んだ空気を胸深く吸い込んで、また歩き出す。
どこからか、鳥の鳴き声らしき心地のよい音も聞こえた。何と言う鳥だろう、と何気なく思い、鳥の名前など全く知らないことに思いいたり、苦笑が漏れた。
強盗、傷害、殺人・・・絶えることなく次々と起こる事件に追われて、日常の中のささやかな安らぎさえ無縁な自分の暮らしに思いをめぐらせ、松田はふと溜息をついた。
「―――疲れた」
小さく呟いてみる。森を歩くことにではない。都会の喧騒の中を泳ぎ抜く毎日に、だ。
木漏れ日の中を、うねうねと木々の間をどこまでも続いているかのような小径を一人歩いていくと、木々の梢が風に揺れてさわさわとざわめいた。松田は、このまま森の中をさ迷い続けても良いような気分になっていた。またどこか遠くで、鳥のさえずりが聞こえた。
どのぐらい歩き続けただろう。うねうねとした小径の先に、光が見えた。どうやら、そこで森が途切れているらしかった。
穏やかな森の中から出て行くことに、僅かばかりの心残りを感じたが、その先に開けているであろう光景への好奇心に駆られて、松田は光の中へ踏み出そうとした。
その途端、松田は誰かに腕を掴まれ、後ろに引き戻された。
「こんなところで何やってんだよ!」
全力で駈けて来たのか、息を弾ませた巽が耳元で喚いた。
「おまえ、いきなり喚くなよ」
穏やかな散策を邪魔されて、松田は少々不機嫌に巽を振り返った。
「何言ってんだよ!?俺が―――俺たちが、どれだけ心配したと思ってるんだよ!?」
巽は、必死の形相で松田の腕を掴み締めていた。
「おまえこそ、何喚いてんだよ?ちょっと散歩してただけだろ?」
「いいから、帰れよ」
「いいじゃねぇか、もう少しくらい」
「駄目だ!」
きっぱりと言い切る巽に、松田はちょっとむっとしたような顔をして見せた。
「おまえにとやかく言われる筋合いはねぇよ」
松田は、掴まれていた腕を振り解こうとしたが、巽は渾身の力を込めて腕を離しはしなかった。
「いいから、帰れ!あんたはここに居ちゃいけないんだよ!」
「どういう意味だよ?」
「どういう意味って―――」
巽は、それまでの勢いとは裏腹に途端に口篭ってしまった。
「タツ?」
怪訝な顔で見返す松田に、巽は泣き出しそうな顔をして口を開いた。
「とにかく帰ってくれよ、リキさん」
巽は、掴んだままの松田の腕を引き寄せ、そのまま松田の肩に額をつけるようにして、松田の身体を後ろから抱き締めた。先刻までの喧嘩腰とは打って変わって妙に神妙な様子に、松田は巽の髪に手を差し入れ、くしゃくしゃとかき混ぜた。
「どしたよ、ん?」
「―――リキさん、俺・・・」
松田は、言い澱む巽を再び振り向こうとした。それを押しとどめて、巽は、松田を抱く腕に僅かに力を込めた。
「―――今だけ、もうちょっとだけ、このまま・・・」
「なんだよ、おまえ。帰れっつったり帰るなっつったり…」
いつもならすぐにむきになる巽が、揶揄するような松田の言葉にも、ただ松田の肩に顔を埋めて黙り込んでいる。
「タツ。おまえ、なんかあっただろ」
言い切る松田に、しかし巽は答えなかった。松田は、小さく苦笑を漏らし、巽の頭をぽんぽんと軽く叩いた。
「何があったんだよ。言ってみろよ」
「なんもねぇよ」
押し殺した巽の声に、松田は眉を顰めた。
「なんもないってこたねぇだろ?」
だが、こんなときの巽は意外に強情で、何を聞いても答えはしないことを松田は知っていた。松田は、それ以上何も言わずにただ巽の頭をそっと抱いた。巽の身体がぴくりと震えた。
長い、長い間、松田を抱いていた腕を、巽がそっと解いた。
「―――リキさん・・・サンキュ」
そのまま松田の身体を押しやるようにして身を離す。松田は、その襟元を後ろ手に掴まえて、ぐいっと引っ張った。
「ほら、帰るぞ」
「って、ちょっと待った、リキさん!」
襟を掴まれたまま、引き摺られそうになった巽が慌てた声をあげる。
「んだよ」
「いや、その・・・俺、あっちなんだよね」
巽はらしくもなく、あいまいな笑みを浮かべると、立てた親指で肩越しに途切れた森の先を示した。
「なんで元来た方に戻んねぇんだよ?」
「・・・リキさんは、そっち。――俺はこっち」
「なんだ、そりゃ。――おまえ、どこ行く気だ?」
真顔で詰め寄られて、巽は再び口篭った。
「―――俺は、俺は、もう・・・」
「もう、なんなんだよ?」
煮え切らない巽の態度に、松田は何故か胸がざわめいて、苛立ちを覚えた。
「はっきり言え!」
「俺はもう死んだんだ!」
意を決したように告げられた言葉に、松田は驚くと同時に、笑い出してしまった。
「何言ってんだ、おまえ。おまえ、ここに居るじゃねぇか」
「思い出してくれよ、リキさん。あんた、撃たれたんだ、俺を庇って」
「タツ?」
「あんた、生死の境をさまよってんだ、だから―――」
「ちょっと待て!だったらなんでおまえがここに居るんだ!?」
「だから、俺は、もう、死んだんだ」
巽の言葉に惑乱した松田を鎮めるように、巽はゆっくりと言葉を切りながら告げた。
「あのときの爆弾が幼稚園の送迎バスに仕掛けられて。俺には爆弾の解体はできなかったから、空き地に投げ捨てるのが精一杯で。爆発に巻き込まれたんだ」
茫然と巽の話を聞いていた松田は、表情を厳しくすると、再び巽の襟元を掴んで引き摺り出した。
「帰るぞ」
細い松田の体からは想像出来ないような力で引き摺られながら、巽は松田を引きとめようと口を開いた。
「だから、今更帰れねぇってば」
「何言ってやがる。俺が帰れるんなら、おまえだって帰れる筈だ」
「無茶言うなよ。もうとっくに霊安室だぜ?今更のこのこ帰ってみろよ。団長やゲンはともかく、係長が腰抜かしちまわぁ」
「係長の腰なんざ知ったことかよ!」
渾身の力で引き摺られて、巽はよろめきながら松田の後をついていきかけ、何とか踏みとどまった。
「もう、駄目なんだよ、リキさん。だけど、あんたは違う。まだ帰れるんだ」
「うるせぇ!帰るっつったら帰るんだ!」
聞き分けのない子供のように繰り返す松田に、巽は泣き笑いの表情を浮かべて見せた。
「聞き分けのないこと言うなよ、リキさん。ガキじゃねぇんだからさ―――」
「やかましい!おまえが、ガキのくせに諦めがよすぎんだよっ」
松田は、巽の襟元を握り締めたまま、振り返った。
「どうして、おまえ一人だけ逝かせられる?帰るんならおまえと一緒だ」
巽は、微かに嬉しげな表情を浮かべはしたが、松田の言うことを聞きはしなかった。
「サンキュ、リキさん。そう言ってくれるだけで十分だ。だから、リキさんだけでも帰ってくれよ」
「タツ」
「でねぇと、ゲンの野郎が泣いて泣いてしょうがねぇよ」
巽は、自分の言葉に苛立っている松田を宥めるように笑って見せた。
「リキさん、最後のお願いってヤツ、聞いてくれよ」
「断る」
松田は、『お願い』の中味も聞こうとはせず、言下に言い切った。
そんな松田に苦笑を漏らしつつ、巽は松田をそっと抱き締めた。
「聞き分けのないリキさんなんて、初めて見たよ・・・なんか、ラッキー」
「馬鹿言ってんじゃねぇ」
巽の背中に腕を回して、松田は呟いた。
「見たけりゃ、何度でも見せてやる。だから一緒に帰れ」
「勘弁してくれよ、リキさん。このままいっしょに連れて行きたくなっちまう―――」
巽が震える声で囁くと、松田は即座に答えた。
「いいぜ、連れてけよ」
「リキさん」
「おまえとだったら、一緒に逝くさ」
「リキさん―――」
半分泣きそうになりながら、巽は、松田にそっと唇を寄せた。
松田は、哀しげな瞳を静かに閉じた。
引き寄せられるように重ね合わせた唇をゆっくり味わうように、巽は、松田に深く深く口づけた。薄い唇を舌でなぞり、そのまま舌を唇の間に滑り込ませる。歯列をなぞる巽の舌に、松田の舌が柔らかく絡みついた。
二人は、思いの丈を込めて何度も何度もくちづけを繰り返した。
「リキさん、サンキュ」
何度目かのくちづけの後、巽が囁くと、松田の周囲から、木々のざわめきも鳥のさえずりも遠のいていき、最後に巽の気配が消えた。

ゆっくりと松田が目を開くと、白い無機質な天井と明子の半泣きの顔が見えた。身動ぎをすると、肩に灼けつくような痛みが走った。
「タツさんが―――」
明子は涙を浮かべて言葉を詰まらせた。
―――タツ、おまえ、ほんとに一人で逝っちまったんだな。
松田は、全てを悟ったが、涙を流しはしなかった。松田に置いてきぼりを食わせるような巽のためには、決して泣くまいと思った。

[END]

2003.05.28
[Story]