さよなら愛しい人よ


by義府祥子様


あいつのせいで、空を見上げる癖がついた。
鵜飼遊祐は軽く舌うちをした。
上なんか見るより、下向いて歩いたほうが財布くらい拾えるってもんが。
たった二ヶ月ぽっちで、こんなに飼いならされちまうとは、このゆかいうーすけさまも舐められたもんだぜ?
九時を過ぎても車道を行きかう車の流れは途絶えない。
昼の猛暑の名残で、アスファルトはまだ熱を持っていた。
この分では今夜もまた熱帯夜だ。
自分のマンションに帰るよりも、待っている男のもとにしけこむ方がいい寝床にありつけるのは明白だった。
時計を見ながら、ガードレールにもたれて煙草に火を点ける。
今夜は気がのらねぇなあ。
煙とともに、ため息を吐き出した。
なんで、だかね。
53歳の新人刑事―仙道晴見を思い出すまいと決めて、まだ長く残った先をもみ消す。
じゃあ、ちょっくら行って来るかー。
脱いだ上着を背中に背負って、夜の中に足を踏み出した。

指定された先はいつものごとく、一流、それも超一流の料亭だった。
季節にあわせて涼しげな氷作りの皿の上に、彩りよく刺身がもられ、粋をこらした酒の肴がいくつも並んでいる。
「遅刻ですよ。」
案内された離れの扉を小さく開けた鵜飼を見ながら、権藤は言った。
言葉を返さず向かいに座った鵜飼のグラスに、すかさず冷酒を注ぐ。
薩摩切り子の青が、今日に限って冷たく見えた。
「こういうの、世間では癒着とか談合って言うんだろうねぇ。」
捨て台詞を吐いて、一気に久保田の『洗心』を流し込む。
のど元を水のように落ちていった。
「五臓六腑に染みわたるっとくら。」
わざと楽しげふるまう鵜飼の本音など見越したように、声を潜めた。
「密会ですよ。」
権藤はにやりと笑う。
「それとも情事と言いましょうか。」
日焼けした右手に、神経質そうな指が重なった。
「あまり飲みすぎないでくださいね。」
もう一度、声を落とす。
「腰がたたないくらいにしますから。」

せっかくの料理だから食いはぐれのないように、食べておかなきゃ。
そんな余裕があったのは最初だけだった。
日本酒独特ののど越しにひかれて、立て続けにあおるうち、頭がくらくらしてくる。
権藤が、頃あいを見て隣の部屋につながるふすまを開けた。
点された灯りの淫靡な色を見て、やはり後悔してしまう。
躊躇のひまもなく、これ見よがしに並べてひかれた布団の上に、突き飛ばされるように転がされた。
「初めてでもないくせに、今夜はやけにしおらしいんですね。」
皮肉な口ぶりで権藤はネクタイをゆるめた。
「どこかの誰かさんのせいですか。」
「ばあか。」
「本当に貴方は素直じゃない。」
鵜飼の靴下を脱がせ、足の指を一本ずつねっとりとしゃぶる。
「小指が少し曲がっていますね。いい靴をはかないからだ。」
「刑事は足で稼ぐのが商売でね。あんたも物好きだ。こんなおやじの足の指を舐めて。」
荒い息を抑えながら精一杯反抗した。
「じゃあ今度は、靴を買ってあげましょう。」
さらりと流される。
ベルトが抜き去られ、ズボンのファスナーに手がかかった。
左手が思わずシーツを握る。
「そんな処女みたいな真似をしないでください。」
権藤の薄ら笑いが降ってきた。
「やっぱりあの人が気になっているんですね。」
下着ごと一気に剥ぎ取られた。無神経な指が奥に差し入れられる。
力を抜こうとしても、うめき声がもれた。
動かされるたびに、感じていく自分の身体が呪わしかった。
中心が熱い口腔に招きいれられる。
ぬめった舌がからまり、小さな孔を突かれて昂ぶりが増した。
くびれをなぞって鵜飼の弱いところを確実に攻めてくる。
「早く、挿れろよ。」
声に出した。
「焦らないでください。」
権藤は冷たく返す。 指が鵜飼の中の一点を捉えて、執拗に嬲った。
「駄目だ・・・、そこ、駄目・・・。」
「達ってはいけませんよ。」
付け根を押さえ込まれ、鵜飼の吐息が切なく喘ぐ。
「放せ・・・。」
「放したら出るじゃないですか。」
もう、声にならなかった。
神経を直接なでられるように、身体の震えがとまらない。
「鵜飼さん・・・?」
権藤の口元に微笑が浮かぶ。
「貴方は自分で思っているよりも、ずっとかわいい・・・。」
繰り返し愛撫を重ねられながら、鵜飼の理性が闇に弾けた。

夕べの権藤はいつになくしつこかった。
鵜飼を二回達かせてから、ゆっくりと内に押し入り長い吐息をもらした。
名前を呼ばれ、頷いた気がする。
後はなにを言われたのか、覚えていない。
ただ、目が覚めたとき、言い知れぬ不安感が胸に居ついていた。
鵜飼の心の中にいる影に気がついた口ぶりを思い出す。
まさか、ね。いくらなんでも、だから動くってわけでもないか。
悪い予感を振り払うように、のびをする。
素肌の上に、薄い夏布団がかけられていた。
部屋は空調が効いていて、まだ薄暗い。
午前四時ってところか。
寝不足と二日酔いで頭の芯が痛む。ぼんやりと思い起こすと二時間ほどしか寝ていない計算だ。
隣に権藤の姿はない。
やくざやさんは、タフだねぇ。こっちはそうもいかない。署に行って昼寝すっか。
思い切って起き上がり、枕元を見るとケースに入ったままの新しいワイシャツが置かれていた。
クリスチャン・ディオール・・・。
いつ用意させたのだろう。手回しのいいことだ。
着てきた服は当然処分されたと考えて違いない。初めから汚すつもりだったのだろうか。
けっ。
乱暴に箱を開けると、小洒落たモスグリーンのシャツを引っ張り出す。
着せ替え人形じゃない、ってんだよ。
自分に似合うことを認めないように、悪態をついた。

部屋に入るなり、越智がきゃんきゃんと騒いだ。
「まぁた、さぼってー。鵜飼さんどこ行ってたんですかー。」
しれっとして言葉を返す。
「ん?極秘捜査、極秘捜査。」
結局自分のねぐらに戻って朝寝をし、もちろん服を代えて出てきたのは十時過ぎだった。
「お前知らないの?うちの署は、ずっと前からフレックスタイム制なの。都合のいい時間に出てきて、いい時間に帰ればいいわけ。」
「鵜飼さんだけ、ね。」
姫野がするどく突っ込む。
「そんなことより、三丁目の薬局の店先で窃盗ですよ。」
鵜飼の登場で一気にさわがしくなった三班に、田所がいつもの説教がましい調子で近づいてきた。本当に平穏無事に済む一日というものは存在しない。
「あの、何が、盗まれたのでしょうか。」
馬鹿丁寧に仙道が合いの手を入れる。
「なんだか、人形?あのー、ぴょんちゃんだか、さとちゃんだかの人形がなくなったそうです。」
「それって酔っ払いが勝手に持っていっただけじゃないんですかー。」
たいしたことのない内容に、姫野はあからさまにやる気のない声を出した。
「そうは言っても被害届が出ているので、捜査しないわけにはいかないんです。」
田所がヒステリーをおこさないうちに、腰を上げたほうが無難な様だ。
「では、越智君、姫野さん、よろしくお願いします。」
仙道の声をうけ、二人は部屋を出て行った。
「人形・・・ですか。」
「最近はマニアがいるって言うからねー。」
呟いた仙道に、鵜飼が反応する。
「案外、家にマネキンだの、蝋人形だの集めてるやつなんじゃないの。」
「それよりは、おもちゃマニアだとか、看板マニアなのではないでしょうか。」
「おたく、マニアに詳しいの?」
からかうように、鵜飼は煙草を取り出した。
「鵜飼さん、署内は禁煙です!」
田所の声が響く。首を回し後姿で片手を振りながら、鵜飼は部屋を後にする。
昼寝どころじゃ・・・ねぇなあ。

「鵜飼さんは観音菩薩に似ていますね。」
結局ぶらぶらと盗難のあったという、商店街まで来てしまった。
追いかけるように仙道がついてきて、いつものように気ままな単独行動といかないのが難点だ。
いい加減にきりあげて副署長室に雲隠れを考えていた鵜飼は、わざと狭い路地が入り組んでいる場所を選んで歩く。
小走りに肩を並べて汗を拭きながら、仙道が話しかけた。
「はあ?」
「菩薩と如来の違いを知っていますか?」
無視しきれずに、つい応えてしまった自分を呪った。
「如来は宇宙の真理を悟り、解脱したものです。菩薩はまだ悟りをひらいておらず、修行中の身の上になります。観音菩薩は中でも現世利益の仏として信仰されており・・・。」
「で?俺は修行中てこと?」
またもや長くなりそうな話を巻き始める。
それにしても、今日も暑い。
アスファルトの上に蜃気楼が立つのが見える。
背広の裏が濡れ始めるのが気持ち悪かった。
どこかクーラーの下に避難しなくちゃ。
「いえ、そうではなく、我々に近い立場で迷える庶民を導く役割といいますか。」
「あ、じゃあね。今導くから。そこの喫茶店に入ろ、入ろ。」
鵜飼は仙道の腕をつかむと、強引に空調の効いた店内にひきずりこんだ。

冷たい風が心地いい。
水浴びをする犬のように表情を崩した仙道が、席に着くなり注文した。
「クラッシュオレンジリキュールとチョコレートムースのパフェ、お願いします。鵜飼さんも同じでいいですね。」
それって、ここの一推しじゃん。
先に科白をとられた鵜飼はふてくされたように、横を向く。
恐る恐る様子をうかがう仙道の上目遣いがおかしかった。
こんなおおぼけな奴なのに・・・。
いつもどこかがちょっとずれていて、いらついてしまうこともあるのに、最後には納得させられる。
時々、心を動かされてしまう。
人でなしだ、と言っておきながらどうしようもなく惹かれていくのを否定できないのが、鵜飼は腹立たしかった。
コップの水を冷酒のごとくあおる。
「観音菩薩の基本形は聖観音と呼ばれ、右手に蓮の花を持っています。」
仙道がぽつぽつと、勝手に先ほどの続きを話し始めた。
「奈良の薬師寺の聖観音は大変有名で、鵜飼さんのお姿はまさにその観音像を思わせます。」
むせかえってしまった。
「均整のとれた身体つき、腰のライン、指先の感じや、そのなまめかしい顔立ちが・・・。」
「いっぺん撃ち殺しておこうか。」
半分本気で、仙道をにらんだ。
まったくこの男は何を言い出すかと思えば。
ガラスの器に盛られた例の一品が運んでこられなければ、事態はもっと悪くなっていたかもしれない。
気まずい空気に、美味しい食べ物というのは本当に有効だ。
一さじ掬ったチョコレートのとろける食感に、鵜飼は目を細める。
そして、その目がガラス越しに、向かいの薬局に向けられた。盗難のあった店先で、まさに越智と姫野が現場聴取を行っていた。

「じゃあ、盗まれた人形っていうのは、つい一週間前に新しくなったばかりのキャラクターだったんですね。」
「そうです。コロタン・・熊のやつです。メーカーが、一体買い取れ、買い取れ、とうるさいので頼んだんです。うちには15年来使い込んだぴょんちゃんがいます、て何度も言ったんですけど。」
薬局の女主人は、心底困ったくちぶりで越智に対応していた。
ぴょんちゃんでもコロタンでもどっちでもいいや、とばかりに続けて聞く。
「で、ここに置いてあった。」
「ええ。」
越智が手振りで示した場所を見ると、今のところ、間口の狭い店の左端には古ぼけたうさぎが据えられていた。
「これは?」
「新しいのがなくなったので、前のぴょんちゃん人形を出してきました。エスエヌ製薬のキャラクターです。今は流行らなくなりましたが、当時はすごい人気でね。いつか譲ってほしい、て店に言いに来た人もいたんですよ。」
「今回の人形は、そういう申し込みはなかったんですか。」
姫野が横から口を挟んだ。
「あってもお断りしますが、今回はなかったですね。それだけ乱暴な世の中になったんでしょうか。」
女主人はおおげさなため息をついた。

大体の聞き込みを終え、喫茶店から手を振る鵜飼に気がついた二人は、ここぞとばかりに乱入してきた。
かいつまんで内容を伝える。
「なぜ人形を盗んだのでしょう。」
聞き終えた仙道は、しごくまじめな口調で言った。
「なぜって、欲しかったからでしょう?」
姫野は当然と返す。
「しかし、この人形はかなり大きなものです。持ち運ぶのにも手間取りますし、自宅に置いておくのもかなり場所をとると思います。」
「好きな人はそんなの気にしないんじゃないですか。」
どうもじれったい。
「じゃあ、お前さんはなんだって思うの?」
また突拍子もないことを言い始めるに違いないと、危ぶみながらも鵜飼は話をふってみた。
「犯人はむしろ、あの古い人形がどうなったか知りたかったのではないでしょうか。」
仙道はごく真剣だった。
「うさぎの人形です。お話しでは、譲って欲しいと言われたこともあるのでしたよね?新しい人形が立って、まだ一週間です。持ち帰りたいほどのファンがついているとは思えません。古い人形は15年、街角から見守ってきてくれたんです。熱烈なマニアがいてもおかしくないはずです。」
あきれて言葉もない一同を尻目に、とうとうと続けた。
「あのー。」
かかってきた携帯にこそこそ対応していた越智が、遠慮がちに言葉を挟んだ。
「人形、見つかったそうです。すぐ近くの川の中で。」
やっぱり単なる酔っ払いのいたずら・・・。
皆の気持ちが一瞬、はじめて一つになった。

暗闇の中で人影が動いた。
深夜十二時過ぎ、昼間の賑わいとは対照的に、夜の商店街はがらんとしている。
迷いのない足取りが薬局の店先に向かう。
例の古い方のうさぎの人形の前に立った。
回収された新しい人形は、まだ鳥居坂署で検分の途中だ。
うさぎの人形はプラスチックの胴体の上に、ばね仕掛けのプラスチックの頭がはめこまれたつくりになっている。頭の方のばねの隙間部分は空洞になっているらしい。見かけよりもかなり軽い。
影は人形の頭の中に手を入れる。
ゆっくりゆっくりと、忍び出た手にはビニール袋に入った白い粉が挟まれていた。
「それを見せてもらおうかな。」
隠れて一部始終を見ていた鵜飼が、低い声で言いながら近づいた。
片手はピストルの位置を確かめる。
もちろん、こんなところで無闇に発砲などできるわけはないが、念には念を、というやつだ。
もちろん相手が素直に応じるはずはなく、脱兎のごとく逃げ出した。
こちらも昔取った杵柄で追いかける。
途中で鵜飼は、足をとめた。
横顔には確かに見覚えがあった。 体力使うより、頭を使いましょうかね。
口笛を吹いた。

権藤は視線を合わせずにゆっくりした口調で言った。
「また言いがかりですか。」
薄暗い事務所には珍しく取り巻きの姿がない。
デスクワークに勤しんでいた権藤が、目だけあげた。
邪魔するぜ、と鵜飼は無遠慮に入り、ソファーに腰をおろす。前置きもなく、商売が繁盛して結構なもんだな、と始めたところだった。
「言いがかりかどうかは、知らねぇけどよ。ヤクの取引場所にうさぎの人形使うのは、ちといただけないな。」
返事がない。
「夜中は人通りがない、見ればすぐにわかるし、いつも店の外に出し放し。まあ、なんかやばいもの置いといて後で取りに来るとしたら、けっこうな目印だわな。」
一昔前の覚せい剤、今のスピード、クラック、名前は変わろうとも違法なドラッグが出回り違法な組織の資金源になっていることに変わりなかった。
直接顔を合わせることなく取引ができるように、あの人形の頭に金や「もの」を隠した。
鵜飼はそう考えていた。
今回突然人形がかわっていたため、あわてた誰かが新しいくま人形を投げ捨て、古いうさぎがまた店頭に並ぶように仕向ける・・・。
「くま人形が出てきてあわてなきゃ、もうしばらくあそこを使えたのにな。」
仙道のとぼけた推理が一部でも当たっているのはくやしかったが、そんなところだろうと踏んだ。
「今回のことはもう、とやかく言わねぇよ。場所は変えてもらうけどな。でも次に見つけたら、間違いなくしょっぴくぜ?」
「やくざに恩を売る、てわけですか。」
鵜飼は肩をすくめた。
「証拠はない。俺がヤクを取りにきた奴の顔を覚えてるってだけの話だ。」
さりげなく、脅しをかける。
わかっていながら忍び笑いをもらし、権藤は急に声をひそめた。
「鵜飼さん、そろそろ刑事を辞めませんか。」
鵜飼だけに聞こえる、耳障りな響きを含んでいた。
聞き流して、煙草に火を点ける。
権藤が煙を嫌がるのは、承知だ。
もちろん灰皿がないので、床に撒き散らす。
「もう15年です。気持ちを固めてもらってもおかしくない年月だと思いますよ。」
「辞めて、どうしろってか。」
15年、鵜飼が権藤と関係を持ってからの、長すぎる年月。
席を立ち、黒いスーツ姿は鵜飼の隣に腰をおろした。
「貴方は頭もきれる。仏壇屋の息子で私立探偵というのも、似合うでしょう。」
左手をとり、小指をねぶる。
「今夜みたいなことがあって、逆に相手が暴走したら、この指がいつまで無事かわからない。」
「俺なんてどうだっていい。」
指の隙間に、舌を這わせた。
「では、貴方が隠している大切な人はどうしますか。」
はっと権藤をにらんだ。
蛇のように執念深い目が鵜飼を追い詰めていく。
鵜飼は口をつぐんだまま、権藤からそらさない。
「折角ですから、辞表を出しやすくしてあげますよ。そうですね・・・、この前の密会の写真でも監察に送りましょうか。」
権藤は鵜飼の腕時計を外し、手首に口付けた。
「安い時計は似合いませんよ。」
引こうとした鵜飼の腕をさらにきつくつかんで、拍動に歯をたてる。
「それともご自身が、三人くらいの若い者に輪姦されでもしないと、覚悟ができませんか。」
「こんな50男の尻見て、誰が勃つかよ。」
たまりかねて鵜飼が言葉を返した。
「今時のやつらはね、薬を盛ってやれば、誰でもいいんです。孔ならなんだって見境いなしだ。」
ネクタイに手がかかる。
スローモーションで身体が押し倒された。
「そんなけだものにくれてやるのは、惜しいんですけどね。貴方があまりに強情だと、私も遣り方を考えないといけない。」
鵜飼は目を、閉じた。
「もちろん、貴方が野獣どもに犯されるのを見ながら飲むのも、魅力的な案ですが。」
底冷えのする声で権藤は言い放った。

身体の奥で、権藤が圧倒的な質感を増していった。
片方の足をソファーの背もたれに掲げ、中途半端に脱がされたズボンが鵜飼の足元、床の上で丸まっている。
首筋に息がかかった。
シャツの裾から入り込んだ冷たい手は、遠慮もなしに胸をもてあそぶ。
「声、出したっていいんですよ。」
権藤が不気味なほど優しい声で言った。
「誰も恐ろしくて、この部屋には入って来れませんから。」
鵜飼は自分の人差し指を噛んで、息を殺す。
「畜生・・・。」
こんな場所で強引に身体をつながれているのに、どうしようもなく感じた。
せめて朱に染まった目元に、潤んだ瞳に、気がつかれないように顔を背ける。
権藤の右手が、嵌められている鵜飼の入り口をぐるりとなぞった。
鼻にかかった呻きがもれる。
「美味しそうに銜えこんで、本当に貴方は素敵だ。」
喉の奥で笑いながら、律動を速めた。
局所だけはだけた格好で、奥へ奥へ、突きながら鵜飼を深く求める。
呼吸が荒くなった。ソファーの布をつかんでいた手が剥がされ、空を切る。
鵜飼の中で、なにかが壊れ始めた。
夏が秋に移りかわるときのように、勢いをつけて崩れていく。
だめになっていくんだ・・・。
音をたてて。

外された時計をはめ、乱された衣服を直しながら、鵜飼は知らずにため息をついた。
昨日の今日だってのに、なんて体力だ。化け物か、こいつ。
その怪物は隣の部屋で手を洗っていた。
荒らされた秘奥から腰に突き抜けるように、痛みが走る。眉間にしわがよった。
こっちはもういい年なんだから、加減ってものをしろよな。
状況を茶化しながらも、一方で冷静に権藤の言葉を反芻した。
刑事をやめる・・・、そして?
そうすれば、ヨジンにも、他の誰かにもなにもおこらない、逆にこのまま続ければ何かをおこす。
何を?
想像するのはたやすかったが、いやな気分になるだけなのが目に見えて、やめておいた。
辞職を切り出すなら、いっそあいつのせいにするかな。
こんなぼけた上司とはやってられねぇとでも、言って一暴れ。
憎まれ口をたたいて、精一杯嫌われて、せめて忘れられないような別れを仕組んでみるか。
もう、会えないなら、いっそ。
心の底で決めた。
それが一番、いいのかもしれない。
こんな中途半端に刑事やって、いろんなやっかいごとにあの娘をまきこんじまったりするよりも。
女に惚れるのが面倒くさくなって、やくざの情人みたいな真似して、馬鹿みたいなおやじに憧れちまったりしているよりも。
地面に繋ぎとめている楔を抜いて、自由な身の上になってしまった方がいい。
その方がせいせいするってもんだ。
権藤が手を拭き、戻ってくる。
「夕べお話ししていた、『いい靴』を買っておきました。」
部屋の端のロッカーの中から、真新しいフェラガモも取り出した。
こげ茶の皮が、冷えた光を放った。

ヨジンの誘拐で三班全体が暴走した事件は、思わぬハッピーエンドに落ち着いた。
まさかこんなに丸くおさまるとはね。また、あんたのおかげかい。結局、いいとこどりなんだな。
鵜飼の胸中は複雑だった。
缶ビールを持って、屋上に誘い出す。
仙道が一瞬躊躇しながらもつきあってくれるのが、やけに嬉しい。
並んで見る夜景が滲み出すように輝いていた。
百万ドルとはいかねぇが、十万円くらいの価値はあっかな。
生ぬるい風が頬をなでる。
・・・これで、最後だから。
いつもよりビールが苦く喉を落ちていく。
自分が去る代わりに、仙道には署に残ってもらうように、鵜飼はもう根回しをしていた。
明日になれば、仙道にわかってしまう。
お涙頂戴の辛い別れなんて似合わないから、酔ってしまおう。
「仙道・・・、今回のこと、お前さんの胸のうちだけにとどめいておいてくれよ。」
ヨジンは、なんにも知らなくていい。
・・・お前さんも。
俺には娘なんていなかった。仲間もいなかった。
いつも独りだった。
今までずっとそうだったし、これからもそうだ。元にもどるだけなんだ。
「わかりました。」
かわらない生真面目な口調で仙道が答える。
その後何も気がついていない、いつもの優しい瞳が、いたずらな影を宿して鵜飼の顔色を窺った。
「そのかわり口止め料をいただきます。」
何?
いつに似合わぬすばやさで頭を引き寄せられ、問いかけた唇がだしぬけに塞がれる。
突然の口付けに、鵜飼は目を閉じることさえ忘れていた。
温かい唾液が流れ込み、猫のように、やわらかい舌が絡んでくる。
甘く夜の匂いが湧きあがった。
「け、結構うまいじゃん。」
顔を離すと、足元が回る錯覚に陥る。
眩暈がする、こんな不意打ち。
鵜飼は口元を拭いながら言った。
「さすがに人間を50年もやっておりますと、いろいろ経験も積むことがありまして。」
飄々と、仙道がかわした。
「反則。」
すねた声でつぶやいた鵜飼の指に、そっと仙道が触れる。
「もう少し、一緒に働かせていただいてもいいでしょうか。」
なんで警察の屋上で、男同士、手を繋いでるんだよ。
ふざけるはずなのに、胸がいっぱいで声にならなかった。
遠くを見ながら、守れない約束に頷く。
夏の夜の夢、なんだ。
鵜飼は思いを馳せた。

「来ますよ・・・。涙雨。」
指で天をさした。
もう土砂降りの中にいるみたいな顔だ。
鵜飼が一歩ずつ離れていく。
振り向いて外したサングラスの下で、声に出さずにとても静かに泣いていた。
傘がないんだ、とその目は言っていた。
仙道は、遠ざかる鵜飼の靴の先を見る。見覚えのない真新しい靴で、これからどこに向かうのだろう。濡れた靴が、鵜飼を知らないところへさらっていく。
真昼の幻が、二人を引き裂きさいた。
「内緒で内偵中の事件があるんだ。」
見え透いた嘘に、仙道は言葉を探した。
ありがとうも、さようならも言えない。
熱風がただ空気をかきまわした。
また会えますか、なんて聞いてはいけない気がした。
聞いたら、全て・・・終わり。
そんな予感にたまらなくなる。
やっと、貴方に会えたのに。
あんなに近くに一緒にいた日々が、確かにこの手にあったのに。
独りになる。
貴方も、僕も。
にじむ風景に、鵜飼が目をそらす。唇が震えてかすかなため息が伝わった。
違う。 ・・・必ず出会うまでもう一度待っていてください。
仙道は願いをかけた。
眩しすぎる夏の日差しに、鵜飼の背中が陽炎になってしまいそうだった。
今度はきっと、貴方を受け止めて、捕まえます。
道路の上の逃げ水のように、追いかけてもすり抜けても、それでもいつか。
貴方のそばにたどり着きます。
鵜飼がためらいながら、足を踏み出した。
二人の距離が広がる。
しばしの別れ。
ほんの一時の。
・・・愛しい人。
仙道は口の中で、その言葉をつぶやいた。
還ってきてください。
大都会の街並みに、幾多の思いが乱反射する。
影はまだ濃く、焼け付いた季節の先は見えなかった。

[END]


2005.12.4
[Story]