no-dice

雨宿り


できたばかりの簪を届けに行った帰り道、突然の雨に秀は小走りに駆け出した。通りには、突然降り出した雨に、慌てて店の軒先で雨を避ける者も、秀のように駆け出す者もいた。

「おい、秀」
雨を避けて腕を顔の前にかざし、背中を丸めるようにして走っていた秀は、いきなり呼び止められて、驚いて立ち止まった。首を回すと、傘を差した勇次が立っていた。
「三味線屋・・・」
雨に濡れそぼった秀を見やって、勇次は軽く眉を寄せた。
「お前ぇ、傘は」
勇次は、すっ、と秀に傘を差しかけた。
「出先で急に降られたんだよ」
切り放しの髪からぽたぽたと滴が落ちるのを、手で拭う。
「じゃあな」
くるりと踵を返す秀の腕を勇次が掴んだ。
「お前ぇの長屋まで随分あるだろ。傘貸してやるから、うちに寄りな」
「いらねぇよ。どうせ、びしょ濡れなんだ」
秀が勇次の手から腕を引こうとすると、勇次が呆れたように笑った。
「別に意地張るようなことじゃねぇだろ」
そのまま秀の手を引いて歩き出す。
「おい、手・・・」
秀が掴まれた手を離そうとすると、勇次が逆に強く握ってくる。
「離したら、お前ぇ逃げる気だろ」
ふっと笑みを浮かべる。
すっ、と傘を傾けて、勇次がついと秀の耳元に口を寄せた。
「寄っていけよ」
艶のある声が耳を打つ。とくりと胸が跳ねた。

店の表戸を入ると、草鞋が脱がれていた。
「おっかさん・・・」
呟いた勇次が、店の奥を覗くように首を伸ばした。
「おっかさん、帰ってんのかい」
奥との間に掛けられた暖簾を上げて、おりくが顔を出した。
「おや、勇さん。おかえり」
秀は、慌てて、勇次に掴まれていた腕を引き抜いた。
「あら、秀さんも一緒かい」
「あ、ああ」
秀はたじろいで、短く応えた。
「どうしたんだい。びしょ濡れじゃないか」
「傘も持たずに走ってくのに、そこで出っくわしてね。傘貸してやろうと思って連れてきたんだよ」
勇次が、嘘こそ吐いていないが、肝心のところは誤魔化して、しれっとしているのを横目で見て、秀はほっとすると同時に、その神経に呆れた。
「あらまあ。ま、上がって着物を乾かしてお行きよ。そんなびしょ濡れじゃ、風邪引いちまうよ」
「え」
おりくの言葉に、内心ぎょっとしながら、秀は困ったような笑みを浮かべた。
「いや、そんな柔じゃねぇから・・・傘貸してもらやぁ十分だよ」
秀は勇次の方に向かって手を差し出した。
「その傘、貸してくれ」
「・・・ああ」
さすがの勇次も、ここで秀を引き止めるほどには図太くないらしい。手にしていた濡れた傘を秀の方に差し出した。
「遠慮するこたないよ。お茶でも飲んでるうちに乾くからさ」
重ねて勧めるおりくに、秀は困り果てて、つい勇次を見た。
俺に言われたって・・・。
勇次の目がそう言っていた。
逃げる気かよ。
秀も目顔で応える。
「ちょいと勇さん、ぼんやり突っ立ってないで着物を出しておあげよ」
「あ、ああ、そうだね」
おりくの言葉にこれ幸いとばかりに、勇次は傘を置き、奥へと消えた。
あのバカ。
秀は、胸の内で舌打ちをした。
「ほら、秀さんも突っ立ってないで。これで拭いてさ」
乾いた手拭いを差し出す、全くの善意のおりくを前に、もう秀も従うよりほかなかった。
「すまねぇ」
軽く頭を下げて手拭いを受け取ると、滴を垂らす髪をがしがしと拭く。
おりくが笑って手招きをした。
「さ、おあがりよ。ちょうど、いいお茶請けもあるしさ」
秀は、びしょ濡れの半纏を手拭いで押さえながら、先に立って奥へ入るおりくについていった。
座敷に入ると、奥から、きちんと畳まれた着物と帯を持った勇次が現れた。
「ほら」
秀に着物を押しつけると、勇次は長火鉢の火を熾し、茶の支度を始めた。
「秀さん、ほら着物を脱いでお貸し」
手を差し出すおりくを前に、秀は戸惑いを隠せずに立ち尽くした。
ただでさえ、おりくの前では着替えにくいが、そこに勇次までいては、着物を脱ぐのが躊躇われた。
ちらりと勇次を見ると、どうやら秀の戸惑いに気づいているらしいのに、知らん顔で茶の支度をしている。
おりくが不思議そうな眸で見上げてくる。秀は肚を決めた。
濡れた半纏を脱ぎ、おりくに手渡すと、急いで勇次の着物を羽織った。きちんと着るのは随分久しぶりで、帯を結ぶのに少し手間取る。
秀の着流し姿を見たおりくが、ふふっと笑った。
「秀さんも、そういう格好すると見違えるね」
秀の半纏を長火鉢にかざして、目顔で秀に座るように促す。
秀が座敷の隅に腰を下ろすと、勇次がおりくの前に湯呑みを置き、秀にも差し出した。
勇次を横目で睨んで、秀は湯呑みを受け取った。煎れられたばかりの茶は熱く、冷えた身体が内から温まる。立ち上る湯気に目を細めた。
「勇さん、そこの包みに上州の土産があるから、ちょいと出しとくれ」
「はい」
おりくの言葉に、勇次はつと動いて包みを取り上げ開き始める。
ふと手を止めて、さっと立っていくと、小皿を持って戻ってきた。
秀は、口元を隠してふっと笑った。
日頃どちらかというと、すかした気障な振る舞いの多い勇次が、おりくの前では随分と行儀よく、何よりまめまめしい。
さしもの勇次も、おりくの前ではただの倅だ。勇次を見るおりくの眸も優しく暖かい。
秀は、二人を見て眩しそうに目を細めた。口元に、自然と笑みが浮かぶ。
「なんだい、秀さん」
秀の柔らかな笑みを見て、おりくがちらりと笑った。
「いや、なんて言うか、親子ってこういうもんなんだなぁって思ってさ」
秀は、口元に笑みを浮かべたまま、少し目を伏せた。
おりくも勇次も、秀が親なしっ子であることを知っている。
錺職の弟子になるまでに、どれほどの苦労をしたことか。十やそこらで職人の弟子になり修業を積むことが、甘いものではないことも想像に難くない。
勇次にとっておりくは本当の母ではないし、おりくが仕事人であるがために一つところに長く住まうこともなく、あちこちを転々としてきた。が、それでも勇次は、幼い頃から母の庇護の下に育ち、一人世間に放り出されたことはない。
ふとおりくと勇次の眸に、労わるような色が浮かんだ。
「秀さん・・・」
「あ、すまねぇ」
二人の表情に気づいた秀が、すまなそうな、だが柔らかな笑みを浮かべた。
「別に羨ましいとか、こう、てめぇが寂しいとか、そんなんじゃねぇんだ」
つと目を落として、口元に笑みを刷く。
「ただ、なんていうか、あったけぇなって。そう思っただけなんだ」
おりくと勇次が訳ありの母子であることは、秀も知っている。
勇次の父親が仕事人だったこと。仲間を売ったその男をおりくが手にかけたこと。残された勇次をおりくが育てたこと。
だが、勇次はおりくを母として慕っている。おりくも、伝法な口を利いてはいても、勇次を見る眸は慈しみに満ちている。
秀は、本当の親子の情愛がどういうものかを知らない。
それでも、この二人が本当の親子以上に強い絆で結ばれていることは分かる。
常日頃の二人を見ているだけでも、それは十分に分かる。
正直妬けるほどに、仲の良い母子だ。
が、こうして気の張らない家の中で間近に見ると、その絆の強さ、細やかな情愛がひしひしと伝わってくる。
羨む気持ちがない訳ではないが、それよりも心が暖かくなるような心持ちになる。
秀は、目を上げて明るい笑みを浮かべた。
「俺も親なしっ子だけど、加代だって小せぇ頃に親とはぐれて、親の顔もろくに覚えちゃいないらしいし、八丁堀に至っちゃ種無しだしな」
秀の言葉におりくがふっと笑った。
「そうだねぇ」
「俺たちの中じゃ、あんたたちだけだから、家族ってやつを感じられるの」
「まあ、八丁堀には婆さんとかみさんがおぶさってるけどな」
勇次が、悪戯っぽく笑う。
「勇さん」
おりくが、窘める目をした。
「お茶、冷めちまったね」
勇次が、新しい茶を煎れ始める。
暖かく穏やかな空気が部屋を満たし、秀はその温もりに身を委ねた。
「さ、秀さん、乾いたよ」
半刻も経つ頃には、重くなるほどに濡れていた半纏もすっかり乾いた。
「ありがとう」
手早く着替えていつもの半纏姿に戻った秀は、ほっと息をついた。
「やっぱり着物は窮屈でいけねぇや」
肩を解すように首を動かす秀に、おりくが笑みを浮かべた。
「たまには着物をお着よ。男振りが上がるよ。ねぇ勇さん」
おりくの言葉に、勇次はちょっと困ったように笑い、秀はどぎまぎとしておりくと勇次を交互に見た。
「からかわないでくれよ、おりくさん。俺は職人だから、こっちのが合ってるよ」
そう言うと、秀はさっと立ち上がった。
「世話になってすまねぇ。助かったよ」
店の方へと出ていきかける秀の背に、おりくが声をかけた。
「せっかくだから、夕飯も食べておいきよ」
秀は、振り返って笑顔になった。
「ありがたいけど、遠慮しとくよ。旅から帰ったばっかりだろ。母子水入らずのところに割り込んじゃ、三味線屋が妬くからさ」
ふふっとおりくが笑った。
「そうだねぇ。こう見えて、この子は案外甘ったれだからねぇ」
「おっかさん、そりゃないだろ」
勇次が不本意そうな声を上げる。
秀とおりくは目を見合わせて、面白そうに笑った。
おりくが、ふと外の音に耳を澄ました。
「どうやら雨も上がったようだね」
「邪魔したな」
そう言うと、秀は店の方へ姿を消した。
その背中を見送る勇次の横顔を、おりくがちらりと見やった。
さて、お邪魔虫はどっちだったかねぇ。
含み笑いをしたおりくは、冷めかけた茶を啜った。

[終]


2015.01.19


[Story]