Marigold

一面の花。赤、白、薄紅、紫、…色とりどりの小さな花々が、一面の緑の海に咲き乱れている。
空は、どこまでも青く澄みわたり、穏やかな陽射しが花々に降り注いでいた。
「小春日和ってやつだな」
松田は、小さく伸びをして、柔らかな空気を胸深く吸い込んだ。花々の香りが溶け込んでいるのか、ほのかに甘い。
どこからどう歩いてきたのか、突然目の前に開けた風景に、松田の心は和んだ。灰色の街で過ごす殺伐とした日々から解放されて、こんな場所でゆったりと時を過ごすのも悪くない。
松田は、足元の小さな花を踏みつけないように注意して腰を下ろした。胸のポケットを探り、煙草を取り出して咥え、ふと苦笑を漏らして手を止めた。
「こんなとこまで来て、煙草もねぇよな」
火のついていない煙草を咥えたまま、ライターを弄ぶ。
どこかへ歩いて行こうにも、花を踏みしだかずには行けそうもないほどに咲き乱れる花々を、見るともなく見つめる。見覚えのある花の名前ひとつ思い出せないことに、また苦笑が漏れた。
「ほんとに、『花』のない生活してるよなぁ…」
殺人、強盗、傷害、…人の醜さ、浅ましさ、哀しさばかりを見せつけられる刑事としての暮らし。絶えることなく起きる事件の捜査に追われ、もうずいぶん長いこと、花の一本も買ったことがない。花を贈る相手もいなければ、花を生けてくれる人もない。
「花より団子、っつーかアイスクリーム、だもんなぁ…」
小さく呟いて、くすくすと笑いを零す。静かに時が流れていく。
どのくらいの時が過ぎたのか。ふと気づくと、心地よい風に、小さな名も知れぬ黄色い花が揺れていた。その風に乗って耳に届いたせせらぎの音に惹かれて、松田は腰を上げた。咲き乱れる花を踏み潰さないように、ゆっくりと歩く。
澄んだ水が軽やかな音を立てて流れている向こうには、こちら側より一層色鮮やかな花々が咲き乱れていた。
風に揺れる花々に惹かれて浅い流れを渡ろうと踏み出した松田は、しかし、いきなり腕を掴まれ引き戻された。
「リキさん! こんなとこで何やってんだよっ!」
力任せに引き戻され、耳元で喚かれて、松田は不機嫌に振り向いた。
「お前、いきなり喚くなよ」
いつの間に現れたのか、巽が、妙に必死な形相で松田の腕を掴んでいた。
「俺が、―――皆が、どんなに心配したと思ってんだよっ!」
「大げさなやつだなぁ…ちょっと散歩してただけだろ」
「何のんきなこと言ってんだよ、こんなとこでうろちょろしてんなよっ」
「何カリカリしてんだよ? せっかくいい天気だってのに…」
妙に喧嘩腰の巽に、松田は苦笑を漏らした。
「お前もたまには、花くらい愛でようって気になんないかね?」
あくまでものんびりとした松田の声に、巽の表情から力みが消え、わずかに和らぐ。
「―――いいから、もう帰れよ。皆、心配してんだ…」
「わかった、わかった。帰りゃいいんだろ」
いつになく心配げな巽の顔に、松田は肩を竦めて歩き出した。
「ちょっ…リキさん! どこ行くんだよ!?」
慌てた様子で肩を掴まれて、松田は怪訝な顔で巽を振り返った。
「どこって、帰るんだよ」
「そっちじゃねぇよ」
「んじゃ、どっちだよ?」
「―――こっち」
巽は松田の肩を両手で掴んで、向きを変えさせると、小さくぼやいた。
「意外とリキさんも世話が焼けるよな…」
そのまま松田の肩に額をつけるようにして、松田の身体を後ろから抱き締める。先刻までの喧嘩腰とは打って変わって妙に神妙な様子に、松田は巽の髪に手を差し入れ、くしゃくしゃとかき混ぜた。
「どしたよ、ん?」
「―――リキさん、俺…」
松田は、言い澱む巽を怪訝な顔で振り向こうとした。それを押しとどめて、巽は、深く息を吸い込み、言葉を継いだ。
「なんでもねぇよ」
「変なやつだな」
肩を押されて、松田はそのまま歩き出した。ふと足元に揺れている黄色い花が目に留まり、巽を振り返る。
「なあ、タツ。この花、何て言うか知ってるか?」
「―――キンセンカ」
「へえ、おまえよく知ってんな」
感心したような松田の声に、巽は目を逸らし、ちょっと肩を竦めて見せた。
「まあね」
再び歩き出した松田は、数歩歩いたところで、巽がついてこないのに気づいて振り向いた。
「タツ、何やってんだよ?」
立ち尽くす巽の縋るような眼に、ふと胸を衝かれ、松田は歩みを戻し、手を伸ばした。
「なんだよ、妙な顔して…」
「俺…はさ、あっちだからさ…」
「え…?」
巽は、立てた親指で、肩越しにせせらぎの方を指し示すと、泣き笑いのように顔を歪めた。
「じゃあな、リキさん」
巽の手が伸び、松田の胸を軽く突いた。不意を衝かれてよろめいた松田の足下が急に崩れ、身体が宙に放り出される。松田は、下へ下へと落ちていった―――。

「松田さん」
ぽっかりと開いた目に映ったのは、白い無機質な天井。聞こえてきたのは、明子の安堵したような声。
ぼんやりとした覚醒のときが過ぎると、急速に記憶が甦った。真夜中の通報。爆弾製造中の男。巽に向けられた銃口。それから―――。
「よかった――。西部署に電話してくるね。皆、心配してるんだから…」
明子は、安堵の涙を拭い、笑みを浮かべると、飛び立つように病室を出て行った。
――タツに呼び戻されるなんざ、俺もヤキがまわったよな…
苦笑を漏らすと、肩が灼けつくように痛んだ。これで当分は巽に恩を売れるだろう。巽に呼び戻されたなどとは、口が裂けても言うつもりはない。そんなことをすれば、巽のことだから、図に乗ってつけあがるのは目に見えている。
ふと夢の中で火をつけそびれた煙草のことを思い出す。無性に、煙草が欲しいと思った。巽が顔を出したら、一番にそれを言いつけることに決めた―――。

キンセンカ a common marigold/花言葉:悲痛。失望。別れの悲しみ。

[END]
[Story]