no-dice


「秀兄さん」
夢次が、徳利を傾けてつっと差し出した。
「もっと飲みなよ」
秀が黙って、まだ底に酒の残ったぐい呑みを差し出した。
ゆらり、と行灯の灯が揺れる。
こんな風に馴れ合うようになってどのくらい経つだろう。
秀は、ふとそんなことを思った。
本当ならば。
こんな風に馴れ合っていい相手ではない。もっと距離を置かなければ。
そう、行きずりの他人のようにさりげなく。
ふと立ち上る血の匂いに、秀の頭がくらりと揺れた。

晴らせぬ恨みを金で晴らす『仕事人』

錺職の表の顔の裏側に、仄暗い裏の顔を持つようになって、それこそどのくらい経つのか忘れてしまった。
どんな美辞麗句をもって飾り立てても、所詮はただの人殺しだ。たとえ僅かでも金を貰って殺しを請け負う以上、後ろ暗い殺し屋稼業に変わりはない。
同じ裏稼業の夢次と必要以上に近づいてはいけない。そんなことは、端から分かっていた。
分かっていて、表の暮らしの中にもお互い踏み込み合ってしまう今の仲間たちを、首筋の毛がざわりと逆立ってしまうような危惧を時折感じながらも、突き放してしまうことのできない自分がいた。
独りきりで『仕事』の重みを受け止め続けるのは、あまりにも重い。だからつい、表の暮らしの中にまで仲間を踏み込ませてしまう。

『甘ぇんだよ』

低い、疲れたような八丁堀の、冷たい声が聞こえた気がした。
ふと、秀の口元が微かに歪んだ。

『あんたが一番甘ぇんだよ』

いざとなれば江戸を売ることのできる夢次や秀と違って、曲がりなりにも町奉行所の同心で、口うるさい姑と女房を養っている八丁堀こそ、表の顔と裏の稼業を厳しく分けておかなければならないはずだ。
その当人が、表の仕事の使いっ走りに秀や夢次を引きずりまわす。
仲間が危なくなれば、凍るような声で「これっきりだぜ」と言いながら、結局助けに回る。
あれで、よくこうも長い間、表の顔と裏の稼業の二足の草鞋を続けてきたもんだ。

『まったくてぇしたもんだよ、あんたはよ』

昼行灯の裏に隠れた、凄みのある八丁堀の眼を思い出して、秀は背中がうそ寒くなったような気がした。
凍ったような八丁堀の目の向こう側に、とうに忘れたはずの、ぞくりとするような凄みを秘めた切れ長の眼を見た気がして、胸のどこかがきりりと痛んだ。

あいつも、冷たいんだか温かいんだか分からない眼をしていた。
三味の糸を投げるときの凍るような澄んだ眼差し。猫を抱きながら、杯を傾けるときの柔らかな笑み。
結局、どちらが本当のあいつなのか、分からずじまいだったな。
また胸のどこかがきりりと悲鳴を上げた。

「秀兄さん」
夢次の柔らかい、それでいて焦れたような声に、秀の意識は引き戻された。
「秀兄さん。いったい、誰のことを考えてるのさ」
切れ長の目を少し細めて、夢次は秀の顔を窺った。どうにかして秀の心の中を覗き込もうとするように。
「おいらと呑んでるんだぜ?分かってるの、秀兄さん」
「何、分かり切った事言ってんだよ、お前は」
秀は苦笑しながら、ぐい呑みを呷った。
「だって、兄さん、ちっともおいらのこと見てくれないじゃないか」
二十五?六になったんだっけな、こいつは。
目の前の、端正な若々しい顔。その切れ長の眼が、妙に甘えるように覗き込んでくる。
また、秀の口元に苦笑が浮かぶ。
「止せよ。十七、八の小娘みたいな言い草は」
『らしくないぜ』と続けようとした秀の掌から奪い取ったぐい呑みを、夢次はたんっと音を立てて膳に置いた。その膳を押し除けて、ずいっと秀に身を寄せる。
「おいらが、十七、八の小娘とは違うって事、思い出させてあげるよ」
夢次の眼差しの奥に、二十歳半ばの雄の気配が閃いた。

はっとした瞬間、夢次の手が秀の手首を捉えて、擦り切れた畳の上に秀の引き締まった体を引き倒した。
くるりと視界が回って、煤けた天井板が見えたかと思う間もなく、夢次の端正な顔が覆いかぶさってくる。
「秀兄さん」
囁いた薄い唇が、秀のふっくらとした唇に重なった。自在に蠢く生暖かな舌が、ちろちろと秀の唇をなぞっていく。
触れるか触れないかの曖昧な刺激に、触れ合った唇から秀の全身に小さな虫の這うようなざわめきが広がっていった。
下唇を甘咬みされて、秀の体がぴくりと震えた。
そろそろと蠢いていた夢次の舌が、秀の唇をこじ開けて滑り込んでくる。とろりと流れ込んでくる夢次の唾液とともに、秀の舌が夢次の舌に絡めとられた。
「―――ふ」
舌を絡めあう濡れた響きに互いの体が熱を帯びていくのが分かり、秀は吐息を漏らした。
何度繰り返されても慣れることがない。秀の方こそ、まるで生娘のように、夢次の手管に堕ちていく。
「これでもおいらのこと、小娘なんて言うの?」
大きな眸を今はきつく閉ざして吐息を漏らす秀の耳朶を柔らかく咬んで、夢次がくすくす笑いながら囁いた。
夢次は囁きながら秀の耳の後ろを唇でなぞり、襟をくつろげると日に灼けた首筋をちらちらと舐めあげた。
「莫―――迦、言って、ろ」
荒い息を吐きながら、秀が呟いた。
「いつまで、強がりが続くかな?」
夢次がくすっと笑った。
「ねぇ、秀兄さん」
蕩けるような甘い声で囁く。
骨ばった肩まで剥き出しになるほど、秀の綻びかけた着物をくつろげると、行灯の仄暗い明かりにさらされた肩に音を立てて口づける。
悪戯な手は、無防備な腹掛けの脇から滑り込み、しなやかな体に似合わず鍛え上げられた胸を弄り、秘めやかな果実を捏ね上げる。
「はぁっ・・・」
屹立した果実を押しつぶされて、秀は思わず体をくねらせて、熱い吐息を吐いた。
夢次は、固い蕾の花びらを一片一片剥ぎ取るように、秀のしなやかな体の隅々に白い指を滑らせる。
「秀兄さん・・・感じるかい?」
夢次の含み笑いが秀の耳を打つ。
「く―――」
強情を張るように、首を左右に振る秀の髪が、畳の上で乾いた音を立てた。
気に入りの玩具に夢中になる子供のように、夢次は秀の身体にのめり込んでいった。畳をかきむしる骨ばった指を捉えて、濡れた唇に咥えこむ。一本一本、濡れるほどに嘗め回す。
ぴちゃ、ぴちゃと濡れた音が、卑猥に部屋に零れ落ちた。
音にさえ感じて、秀の、喉仏のくっきりとした喉が反り返る。
「止、せよ、嬲る―――の、は」
秀のよく通る低い声が、濡れて艶を増す。
「秀兄さんが、強情を張るからだよ」
夢次は、秀の乱れた髪に指を差し入れて頭ごと抱き寄せると、深く口づけた。薄く開いた秀の唇の端から、透明な液体が伝い落ちる。
夢次の手が、秀の下穿きの中に潜り込み、からくりを組み上げる器用な指が、熱く脈打つ秀自身に絡みついて蠢いた。
きつく閉ざされた秀の目許がほんのりと朱に染まった。夢次の指から逃れるようにひねった下肢が、裾を乱した夢次の熱い下肢に触れて、秀はぴくりと身を竦めた。

『秀』

遠く、柔らかな艶めいた声が聞こえた気がして、秀は眩暈を覚えた。
三味の糸を繊細に弾いては、艶のある声で低く小唄を歌った男。三味の糸を弾くように、秀の身体を嬲っては、甘い啼き声を上げさせた男。
だが、あの男の身体は、こんなに熱くなることはなかった。喉の奥で、くつくつと笑いながら、自在に秀を嬲っては、どこか醒めた目で秀を見つめていた。
そのくせ、嬲りつくされた秀がぐったりと横たわっていると、そっと温かな胸に抱き寄せて、髪を撫でながら、甘い声で囁くように小唄を歌っていた。その声は、顔も覚えていないお袋の子守唄のように暖かく、秀はよく眠った振りをしてその胸に顔を埋め、鼻の奥がつんとするような想いを噛み締めたものだった。

「―――秀兄さん」
ふと、夢次の声が寂しげに曇った。
夢次は、手荒に秀の下穿きを引き剥がすと、秀の長い足を押し広げ、熱く昂ぶった夢次自身で秀の秘奥を性急に貫いた。
「―――っく」
慣れることのない、引き裂かれるような痛みに、思わず漏れそうになった叫び声を、唇をきつく噛んでこらえる。
夢次は、悲しげに眉根を寄せて、ゆっくりと腰を動かした。
「ねえ、秀兄さん、おいらのことを見ておくれよ」
「―――あ・・・?」
交合した部分から突き上げてくる刺激に、見開かれた秀の黒目がちの眸の焦点は合っていなかった。
「な、に・・・?」
「おいらのことを・・・」
繰り返しかけて、夢次は、きゅっと唇を噛み締めた。少しずつ少しずつ律動を速めていく。
泳いだ秀の右手が、夢次の首に縋りつくように絡みついた
「ゆ・・・じ―――」
「秀兄さん」

『秀』

ゆらゆらと揺らめく視界の中で、白い端正な顔もゆらゆらと朧に揺れた。

―――勇・・・次?

「あああああっ」
ぐっときつく突き上げられて、こらえきれずに秀の口から叫びが漏れた。
「秀兄さん!」
しなる秀の背中を力いっぱいに抱き締めて、夢次は、秀の首筋に顔を埋めた。
「―――は・・・ゆ・・・め、じ?」
薄く開いた秀の唇の端から、透明な糸が伝い落ちた。
秀の首筋から顔を上げた夢次が、泣きそうな顔をして、秀の頬を伝う糸をそろりと舐め取った。
「―――秀兄さん・・・」
ぽとり、と温かな雫が、秀の頬を濡らした。
「・・・なんでおめぇが泣くんだよ」
荒い息をつきながら、秀は、夢次の頭を抱き寄せて、濡れた睫に唇をつけた。
「秀兄さんが、おいらのこと、呼んでくれたから・・・」
ぽたり。熱にひび割れた秀の唇に、夢次の涙が落ちた。
はあっと大きく息をついた秀が、苦笑しながら、乱れた夢次の鬢を撫で付けた。
「泣きてぇのは俺のほうだぜ、手荒に扱いやがって」
「ごめんよ・・・」
いつもの陽気な夢次らしくもないか細い声で、呟く。
「おいら、秀兄さんのことが―――」

『好きだ』

続く言葉を聞きたくなくて、秀は、夢次の唇を己の唇で塞いだ。角度を変えながら、深く口づける。
甘い言葉は胸を締めつける。心の隙に忍び込んで、心を弱くする。弱い心は、闇の稼業の命取りになりかねない。
だから。
あの男は、冷ややかな眸で、秀の口を塞ぎ続けた。秀は、零れ出しそうな言葉を、何度飲み込んだことか・・・。
今も胸を締めつける想いに、秀の脳裡に、とうの昔に忘れたはずの面影が朧にゆらゆらと揺れた。

「泊まっていけよ」
夢次の唇をそっと解放して、秀が低い声で囁いた。
夢次が、ふわりと、嬉しそうな笑顔になった。
「うん」

朧な月が、寝静まりかけた長屋を静かに照らしていた―――。



2008.04.11



[Story]