触れもせで 〜続・唇〜 《参》


「邪魔するぜ」
秀が、表障子を開けて入ってきたのを見て、勇次は柔らかな笑みを浮かべた。
「珍しいな」
「まあ、な」
上り框に腰を下ろした秀が、表情を窺うように勇次の顔を覗き込んだ。
「今日、忙しいか」
「どうした」
勇次に問われて、秀は、考えるようにちょっと黙り込んだ。
「忙しいなら、いいんだ」
秀は、いつも勇次に対してどこか遠慮がちなところがある。
それは、主水との秘められた昏い関係が影を落としているのだと、勇次は思っている。
「別に急ぎの仕事があるわけじゃねぇよ」
「本当か」
問い返しながらも、秀は嬉しそうに笑った。
「団子坂の菊合わせを見に行かねぇか」
この時分、団子坂界隈では、盛りの菊を競い合う、菊合わせが盛んに行われている。
越前堀から団子坂辺りまでは、半刻もあれば行ける。今から行けば、ちょうど午の刻を少し過ぎた頃に着くだろう。
菊を見る前に蕎麦でも手繰って行くのに、ちょうどいい頃合いだ。
「菊合わせたぁ、風流だな」
笑みを浮かべた勇次に、秀は、ちょっと困ったように笑った。
「別に風流で行くわけじゃ・・・」
「じゃ、なんで菊合わせなんか」
「いや、簪の図柄にするのに参考になるかと思ってよ」
勇次は、わざと、ちょっとがっかりしたような顔をして見せた。
「なんでぇ、仕事かい」
勇次の表情を見て、秀は慌てて言葉を継いだ。
「せっかく行くんだから、お前ぇと行けたら、と思ったんだ」
「そいつぁ、嬉しいね」
勇次が柔らかく笑った。
団子坂は、秀の長屋のある下谷からなら四半刻とかからない。しかし秀は、わざわざ反対方向の越前堀まで半刻ほど歩いて、勇次を誘いにきたのだ。
素直で真っ直ぐなのに、ひどく不器用で。
それだけに、愛おしい。
「今、支度するから待ってなよ」
勇次は、手早く張り替え途中の三味線の胴を片付け、細々とした道具も片付けていく。
襷と前掛けを外して、暖簾を中に入れる。
「じゃあ、行こうか」


本郷の団子坂界隈では、あちこちで菊合わせが開かれていて、色とりどりの菊が競い合うように咲き誇っていた。
天気が良いのも手伝ってか、人出も多く、子どもでも連れていると、うっかり迷子にしてしまいそうなほどだ。
勇次が、悪戯っぽい微笑を浮かべた。
「秀、はぐれるなよ」
秀が、むうっと口を尖らせた。
「ガキじゃあるめぇし」
勇次は、くつくつと喉を鳴らして笑うと、秀の半纏の袖を摘んでくいっと引いた。
「勇次」
秀が、戸惑ったように勇次の顔を見た。
「はぐれるなよ」
重ねて言った勇次に、秀は?を赤らめた。
「莫ぁ迦」
そう言いながらも、勇次の手を振り払うことはせず、人混みに紛れて、そのままそぞろ歩く。
「ああ、綺麗だなあ」
秀が、華やかな大輪の菊を見て、感嘆の声を上げた。
次々と、咲き誇る菊を見ては、感嘆の吐息を漏らす。
音に対して感覚が研ぎ澄まされている勇次に対して、秀は、やはり目で見るもの、造形に対する感性が磨き抜かれている。
若いに似ぬ細工をすると評判になるのには、理由があるのだ。
「何か、いい図案が浮かんだかい」
「ああ」
秀の頭の中には、様々に菊の意匠が浮かんでいるらしく、頬は上気して、勇次の声にもどこか上の空だった。
そんな秀の表情を見られただけで、わざわざ団子坂まで足を伸ばした甲斐があると言うものだ。
「これぁ、すげぇや」
飾られている見事な菊人形を見て、秀が子どものように声を上げる。
「これも、いいな」
また、何か新しい意匠を思いついたらしい秀は、一人得心している。
勇次はただ隣に寄り添い、嬉しげな秀の表情を見守っていた。
「あ、すまねぇ。俺、つい夢中になっちまって・・・」
はたと、勇次と連れ立っていることを思い出した秀が、ばつが悪そうに髪をくしゃりとかき混ぜた。
「やっぱり、つまらなかったよな」
すまなさそうな顔になった秀に、勇次は喉を鳴らして笑った。
「風流な菊を見て、おまけに、お前ぇの夢中な顔を見れたんだ。十分楽しんだよ」
「ばっ・・・かやろぅ」
秀は、かあっと首まで赤く染めた。
「お前ぇのあんな顔、見たことがなかったからな。嬉しかったよ」
勇次の優しい声音に、秀はどきりとして目を伏せた。


「今日はうちで飲まないか」
「ん」
勇次に誘われるままに、下谷を通りすぎて、越前堀まで歩いた。
「今日は重陽の節句だし、菊酒でも飲もう」
「菊酒?」
秀は、聞き慣れない言葉に、きょとんとした顔をした。
「菊の花びらを酒に浮かべて飲むのさ」
「へえ。やっぱりお前ぇは風流なこと知ってんな」
勇次は、ちらりと苦笑を浮かべた。
「風流ってほどでもねぇが、おっかさんは、節句の行事を大事にする人だからな」
もっとも、元からおりくが節句を大事にしていたかどうかは、分からない。
勇次という子どもを育てるにあたって、そういう季節の行事をできるだけしてやろうと思ったのかもしれないと、勇次は思っている。
いずれにしろ、端午の節句はもとより、節句と言えばごちそうを作って祝ってくれたことに変わりはないし、ありがたくも思っている。
「そっか。やっぱりおりくさんは、いいおっかさんだな」
秀が、ちょっとうらやましげに言う。
「おやっさん、あ、俺に簪作りを仕込んでくれた親方だけど、節句のことは教えてくれたけど、なんせおかみさんを早くに亡くしてたから、あんまり節句らしいことをしたことねぇんだ」
「そうか」
秀の言葉に、目にわずかに労わりの色を浮かべた勇次が、勝手へと向かう。
「酒を取ってくるから」
「ああ」
勇次が持ってきた酒は、普段は口にしないような、ちょっと上等の酒だった。
「こうして、菊の花びらを酒に浮かべて飲むんだ」
そう言うと、勇次は小ぶりの食用菊から幾枚かの花びらを取り、酒を満たした盃に浮かべた。
その盃を呷った勇次は、そのまま、勇次の手元を覗き込んでいた秀の肩をぐいと抱き寄せた。
戸惑う秀の唇に、唇を重ねる。
驚きに薄く開いたままの唇に、菊酒をそろりと流し込む。
勇次好みの辛口の酒に、ほんのりと菊の香りがして芳しい。
秀が、こくりと酒を飲み下したのを見て、勇次が悪戯っぽく笑った。
「美味ぇだろ」
「いい香りがする・・・」
陶然と呟く秀を抱き寄せ、再び唇を重ね、菊酒を流し込む。
何度もくちづけを繰り返しては、秀の口中に菊酒を流し込んだ勇次は、酔いのせいか、それともくちづけのせいか、ほんのり頬を染めた秀の顔を覗き込んだ。
「酔ったかい」
「ん・・・」
秀は、酔いに任せて、勇次の肩にことりと頭を凭せかけた。
勇次は、愛おしげに目を細めて、小さく笑みを浮かべた。
秋の長い夜が、静かに更けていった。
[続]



2017.9.30

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