憧れ


銃を構える見かけぬ横顔は、精悍で美しかったのを覚えている。だが、自分と西條を見た眸は、誰をも寄せつけない冷たく硬い光をたたえていた。
人質を取った立て篭もり犯のいる喫茶店に車で突っ込み、犯人を撃った。その無謀さに腹が立った。
「俺は60%でも撃ちます」
そう石塚に言い放った原の傲慢さに憤慨した。
竹本にとってはまるで家族のような一係に溶け込もうとしない頑なな態度にも腹を立てた。
だけど、意見が対立した事件。出所したばかりの木田の、妻を愛する心を信じようとした竹本に対し、原は木田こそが犯人だと主張した。事件を調べるうち、原の主張の方が正しいと思われる証拠ばかりが出て、やはり木田が犯人だったのか、と自説を曲げかけた竹本に、原は言った。
「だったら、何故その説を捨てる」
でも、と言い募る竹本に原は続けた。
「一度信じたことは、俺は叩きのめされるまで捨てない―――それができないんだったら俺は初めから信じない」
冷たいとばかり思っていた原の、竹本を励ますような言葉に、竹本はもう一度木田を信じようと思えた。嬉しかった。本当に。
木田を信じた竹本の捜査から、やはり被害者は木田で、真犯人は被害者と思われた男だと明らかになった。潜伏先から逃走した男を取り押さえた原は、竹本に手錠を打てと促した。
「原さん、俺、原さんの一言で考え直したんです。だから手錠は原さんが」
そう言った竹本に、原は言った。
「俺に妙な気兼ねは辞めるんだ―――始めから推理の道筋は2つあった。君の選んだ方が正しかった。それだけのことだ」
原は表情を変えず、踵を返して車に乗り込み走り去った。
そんな原を見て、西條は「相変わらず付き合いにくい奴」と言った。だが、また「意外といいところもある」と言って笑った。竹本も、大きく頷いたあの日。
あの事件で、竹本は原に強く惹かれた。初めは反発しか感じられなかった、冷たく頑なな態度の裏の温かさが見えた気がした。
以来、竹本は原に対して、憧憬と尊敬の念を抱いていた。
正確な射撃。冷静な判断。大胆な行動。鋭敏な直感。緻密な推理。何もかもが、若く、未熟さを自覚している自分にない、憧れの対象となった。
竹本は、主人に懐く仔犬のように、原を慕った。

時が経つにつれ、頑なだった原も徐々に一係の皆に馴染んでいった。いつしか、仲間たちをニックネームで呼ぶようになり、穏やかな笑みを浮かべるようにもなった。
それでも。
どこかに、他人を立ち入らせない壁があった。誰にも心の奥底を覗かせない、穏やかな、だが頑なな微笑み。
竹本は、その壁の向こう側に飛び込みたいと思った。頑なな笑みの奥にある、本当の原に触れたいと思った。
事件のない時には、家庭を持たない石塚や西條と食事や飲みに出かけることがよくあった。そんな時、竹本はいつも「原さんも一緒に」と声をかけたが、原は静かに笑って断りを入れた。ましてや、竹本一人の誘いに乗ることなどなかった。
寂しい。
なかなか原の傍に立ち入れない自分がもどかしかった。
もっと、もっと近くに。近くに行きたい。そう思った。

「原さん・・・」
いつしか、竹本の心の大きな部分を原が占めるようになっていった。
気づけば、原の姿を目で追う自分がいた。
夢の中で、原と打ち解けて語らう自分がいた。

夕食を食べようと、ぼんやりと歩いていた繁華街で、竹本は原を見かけた。竹本の胸が高鳴った。原と二人きりで食事ができるかもしれない。そう思うだけで竹本は舞い上がった。
少し離れた店の前に現れた原に駆け寄ろうとした時、原の後ろから西條が姿を現した。
『ドック―――?』
竹本の足が止まった。
西條は、医者の息子で育ちがいいせいか、誰ともすぐに打ち解けるタイプだ。竹本のことも『ラガー』ではなく『らっきょ』と呼び、弟のように可愛がってくれる。その西條が、頑ななところのある原の心を開いたとしても、何の不思議はなかった。
西條と並んで歩き始めた原が、柔らかな笑みを浮かべた。それは、一係の誰といるときにも見せたことのない、無防備な柔らかな笑みだった。
竹本の胸がチクリと痛んだ。
『原さんがあんな風に笑うなんて、俺、知らなかった・・・』
西條が、原の耳元に何かを囁いた。原が、くすぐったそうな笑みを浮かべる。少し伏し目がちの原の眸に、西條に対する信頼とも愛情ともつかないものが浮かんだように、竹本には思えた。
本当なら、署の先輩二人に遭遇したのだから、駆け寄って、「おごってくださいよ!」と無邪気に甘えればいいところなのだが、二人の親密な様子に、何故か竹本は近づきがたいものを感じて、足を止めた。
『もしかして、ドックと原さんって―――』
湧き起こった疑念に、竹本は凍りついたように立ちつくしていた。

どこをどうやって帰って来たのか分からない。竹本は、いつの間にか自分のアパートで膝を抱えてうずくまっていた。
自分が原を慕うのは、優秀で優しさを秘めた人柄に、刑事の先輩として憧れを抱いていたからだ。そう思っていた。
だが、西條と原の親密そうな姿を見て、竹本の中に、これまで意識してこなかった別の感情が湧き起こった。
「俺、原さんのことが好きだ!」
そう呟いた途端、竹本の眸から大粒の涙が零れた。
竹本は一晩中、声をあげて泣いた。

「なんだ、らっきょ。その目、どうした?」
一晩中泣きあかした竹本の腫れた目を見た西條が声をかけた。
「なんでもありません!」
竹本は、口を尖らせて答えた。
「さてはラガー、失恋でもしたんだろ?」
岩城が笑いながら首を突っ込んできた。
「ち、違いますよ!」
痛いところを突かれて、竹本は慌てて否定した。
「おーおーおー、赤くなっちゃって。どうだ、この恋愛上手のドックに話してごらん」
西條が、軽く竹本の頭をポンポンと叩いて、顔を覗き込んできた。
「違いますってば!」
竹本は、頬を膨らませた。
肝心の原は、賑やかなやり取りには我関せず、といった調子で新聞を読んでいる。
そんな原をちらりと見やって、竹本は目を落した。
『原さんには、どうでもいいんだ、俺のことなんて』
そう思うと、鼻の奥がつんとして、また泣きそうになる。竹本は慌ててすんっと鼻をすすりあげた。

「原さんっ」
先に署の門を出た原の背中に、竹本は声をかけた。
原が驚いたような眸で振り返る。
「原さん、今日、俺と付き合ってください」
縋る思いで竹本は原を誘った。原の反応を見るのが怖くて、竹本はギュッと目を瞑ってしまった。
原は、困ったような笑みを浮かべて、竹本を見ていた。
「俺に、何か話か?」
戸惑ったような原の問いに、竹本は勇気を振り絞って答えた。
「原さんに、聞いてほしい話があるんです!」
暫しの沈黙の後、原の柔らかな低音が、竹本の耳に届いた。
「俺でいいんなら―――」
「ありがとうございます!」
竹本の顔に笑みが広がり、声が弾んだ。

原が、自分が奢るから、と原の行きつけのバーに竹本を伴った。
その店は、普段竹本が行くような店とは違い、少し暗い照明に大人びた音楽が静かに流れる落ち着いた雰囲気の店だった。
竹本は、『原さんらしい店だな』と思った。
「何を飲む?」
穏やかな原の声が尋ねた。
「お、おれ、なんでも。あ、ビール、とか・・・ないですよね、ここ」
どぎまぎと落ち着かない竹本を見て、原が静かな笑みを浮かべた。
「うまいビールがあるよ」
そして、原は慣れたように軽く手を挙げて、バーテンダーを呼んだ。
「バドワイザーを2つ」
「かしこまりました」
静かに答えたバーテンダーが、冷たく冷やしたグラスを二つカウンターの上に並べた。黄金色の液体を静かにそそぐ。
「とりあえず、乾杯」
グラスを持った原が、竹本のグラスにカチンとグラスを合わせた。
竹本は雰囲気に呑まれるように、グラスのビールを一気に呷った。
「で、俺に話って何だ?」
穏やかな原の低音が、竹本の耳をくすぐるのが心地よかった。
「お、俺・・・」
何から話し始めてよいのか分からずに、竹本は口篭った。
原は静かにグラスを傾けて、あえて竹本を急かすような真似はしなかった。
沈黙が流れる。
その沈黙に耐えかねたように、竹本は思い切って口を開いた。
「俺、原さんのことが好きなんです」
唐突な竹本の告白に、原はゆっくりと視線を竹本に戻した。
「ありがとう」
原の穏やかな声が応える。
「俺は、ずっと誰も信じてこなかった。だから、誰にも好かれなかった。七曲署に来て、みんなの温かさに触れて、とてもうれしかった」
「原さん―――」
「こんな俺を好きになってくれて嬉しいよ」
原の思いがけない言葉に、竹本は舞い上がった。
「じゃ、じゃあ、俺とつきあってください」
カーッと耳にまで血が上る気がした。
原が、ことりとグラスをカウンターに下した。
「すまない、ラガー。俺は、君をそんな風には見れない」
原の視線は、黄金色の液体をたたえたグラスの向こう側を静かに見つめていた。
「原さん―――。原さんは、ドックのことが好きなんですか?」
突然の竹本の問いに、原の肩がピクリと揺れた。
「いきなり、何を言うんだ・・・」
「俺、こないだ原さんがドックと一緒のとこ見たんです。原さん、すごく柔らかな笑顔してました。今まで見たこともないような。それで、俺、すごくショックで。気付いたんです、俺は原さんのことが好きだったんだって」
「ラガー・・・」
「それで、俺、一晩中、わんわん泣いて・・・」
竹本は、言葉を切ると、大きく息を吸い込んだ。
「俺、ドックみたいに大人じゃないし、原さんには釣り合わないって思います。でも、原さんが好きだ。原さんのこと―――」
「ラガー!」
言い募る竹本の告白を、原の低い声が遮った。
「俺は・・・俺にはそんな資格がないよ」
原が自嘲するかのように呟いた。
「原さん―――」
「俺は、左胸を撃たれてから、ずっと、残りの人生はおまけの人生だと思ってきた。それでいいんだと。だが、七曲署に来て、少し考えが変わった。おまけの人生にも意味があるんだって思えるようになった。だから、そう思わせてくれた人と生きていきたいと思ってる」
「それが、ドックなんですか?」
竹本の問いに、原は答えなかった。何も言わず、グラスを再び取り上げ、呷った。
「すまない、ラガ―」
竹本はいたたまれなくなって、立ち上がった。
「原さん、すみませんでした」
深々と礼をすると、竹本は踵を返した。振り向くことなく、バーの扉をくぐりぬける。若々しい頬には大粒の涙が伝い落ちていた。

『原さん、原さんがドックを好きでも、それでも俺は原さんが好きです・・・』
夜の街をさまよいながら、竹本は心のうちに呟いていた。
『ずっと、ずっと原さんのことが好きです』

[END]

2013.03.15


[Story]