相思 〜続・時雨〜 《後篇》


《参》


「う・・あ・・・」
勇次の腕の中で眠っていた、秀の寝息が乱れた。
勇次は、つと眉を顰めた。
苦しげに眉を寄せる秀の額には、うっすらと汗が浮いている。
「いや・・・だ・・は・・・なせ」
秀の腕が、何かを追い払うように空(くう)を掻いた。何かから逃れるように、身を捩る。
またか・・・。
勇次の眸が、昏く翳った。
「秀」
勇次の声に弾かれたように、秀が跳ね起きた。
荒い息を吐く口元を、震える手が覆う。丸めた背中も、汗に濡れていた。
「秀」
秀の肩が、ぴくりと揺れた。
「あ・・・」
我に返ったように振り返った顔は、ひどく青褪めていた。
じっと見つめる勇次の眸を避けるように、目を伏せる。
「悪ぃ・・・何でもねぇ」
ふっと息を吐くと、勇次は半身を起こして手を伸ばした。秀の腕を掴み、引き寄せる。
秀の身体は、抗うこともなく、勇次の胸に倒れ込んだ。
抱いた身体は微かに強張り、小さく震えていた。
「朝まで、まだ間がある。少し眠れ」
勇次は、そう言いながら、柔らかな髪を撫でた。
微かに頷いた秀が、ふっと息を吐いた。縋るように、勇次の胸に顔を擦りつけて、目を閉じる。
繰り返し、柔らかな髪を撫でながら、勇次は昏い眸で天井を見つめた。
何の夢を見ていたのか、聞くまでもない。
訊いても秀は答えはしないだろうし、何より、訊けば、秀の傷を抉ることになるだけだ。
秀の身に何が起きたかを知りながら、勇次は秀を抱いた。
秀の傷を消せると思った訳ではない。だが、抱くことで、その傷を自分の色で塗り潰してしまいたかった。
今思えば、それは自分に対する言い訳に過ぎなかった。ただ、秀を抱きたかっただけのことだった。
どれほど想いを込めて抱こうと、所詮、行為自体は、秀を嬲った男たちのしたことと、何も変わりはしない。
おそらくは、勇次に抱かれながら、秀はあの忌まわしい記憶に苛まれている。身体に刻みつけられた記憶は、容易く消せる筈もない。
勇次に抱かれて乱れるたびに、秀の心の闇は深く、濃くなっていく。
ならば。
もう、指一本触れるまい。
恋うればこそ、けして触れてはならない。
もう二度と。
勇次は深く息をつき、目を閉じた。


何故。
軽快に響いていた小槌の音が、ふと止まった。
秀は、つと目を伏せた。
何故。
もう一度、胸の中に繰り返す。
いつからか、勇次は、秀を抱こうとはしなくなった。
以前と変わらず、折に触れ、秀の長屋を訪ねては来る。時には酒や何がしかの肴などを持って、時には飲みに行こうと誘いに。
だが、けして秀に触れようとはしない。泊まっていくことも、稀になった。それも、秀が、帰らないでほしいと思うとき、それを察したように泊まっていくと言い出すだけで、自ら泊まっていく訳ではない。
一組しかない布団に共寝をしても、秀の身体を、その胸に抱き寄せて眠るだけ。くちづけ一つ交わすこともない。
何が勇次にそうさせているのか。
抱かれたい訳ではない。体の繋がりなど、なくても構わない。
心さえ、通い合っていれば。
だが。
端から、心は通い合ってなどいなかったのではないのか。
あの忌まわしい出来事に、人としての矜持を踏み躙られ、秀は、身も心もずたずたになった。その秘密を、誰よりも知られたくなかった勇次に知られて、秀の心は乱れた。
あの夜。
秀は、勇次を殺すか自分を殺すか、二つの他に道はないと思い詰めていた。そのどちらもできないままに取り乱して、秘めていた勇次への想いを吐露してしまった。
だから。
勇次は、秀を抱いた。突き放すことができずに。
冷たく見えて、その実、驚くほどに優しい。だからこそ、心惹かれた。
深く傷つけられ縋りつく者を、突き放すことなど、できはしない。ましてや、自分への想いを吐露した相手を突き放すことなど、できる筈がなかった。
だが、あの夜の秀には、そのことに思い至る余裕がなかった。
ただ、差し伸べられた手に、縋りついた。
『俺のものになりなよ』
その言葉に、勇次もまた自分を想っていてくれたのだと、思い込んだ。
あれは。
憐れみ。同情。
勇次に抱かれるたび、秀は乱れ狂った。それは、長く焦がれてきた勇次に抱かれているからこそのことだと、思っていた。いや、思いたかった。
だが、ただ男に狂っていただけなのかもしれない。その浅ましい姿に、勇次も愛想を尽かしたに違いない。
それでも完全に突き放すことはせず、秀を訪ねてきては、酒を酌み交わしたりもするのは、せめてもの優しさなのだろう。
ならば。
もうこれ以上、その優しさに甘える訳にはいかない。これ以上、縛りつけることはできない。
自分の方から、離れていくしかない。
勇次は、秀を突き放すことなど、できはしないのだから。
身を切り裂くような切なさに、秀は無意識に己れの肩をきつく抱き締めた。




《四》


いつものように表戸をからりと引き開けると、秀が簪から目を上げた。
勇次の姿を認めると、いつもと変わらぬ笑みを浮かべる。
「三味線屋・・・」
勇次は、つと眉を寄せた。
秀は、出会った頃からずっと、勇次のことを三味線屋と呼んでいる。
だが、初めて抱いたあの夜からは、二人で過ごすときには、勇次、と呼ぶようになっていた。
小さな棘が、心に刺さる。
勇次の表情に気づいたのか、秀が物問いたげな目をした。
勇次は、口元に笑みを作った。
「久しぶりに、飲みに出ねぇか」
秀の眸が、困ったように微かに揺れた。
「あ・・・今日は・・・」
言いさして、何かを思い直したように、笑顔を見せた。
「そうだな。ちょっと待っててくれ、すぐ片付けるから」
言いながら、手は、道具を道具掛けに、きちんと揃えて掛けていく。
作りかけの簪を取り上げ、ふっと息を吹きかけ、削り屑を払い、布で拭う。
簪を、小さな箪笥の抽き出しにきちんと収めると、今度は細工台の上と周りの床を、小さな箒で手早く掃き清めた。
「相変わらず、几帳面だな」
思わず呟いた勇次に、秀は含羞かんだような笑みを浮かべた。
「ああ、もう癖になっちまってるからな」
いつだか、簪作りを仕込んでくれた親方に厳しく言われたのだ、と言ったときも同じように含羞かんだ。
その柔らかな表情が、勇次は好きだった。
「待たせたな」
秀は笑って立ち上がり、草履をつっかけた。


連れ立って入ったのは、先ごろ店を開いたばかりの小さな料理屋だった。さして広くはない土間に幾つか卓が並び、小さな小上がりが二つ、窓際にしつらえてある。
二人は、小上がりの一つに上がり、向かい合って腰を落ち着けた。
燗をつけた酒と気取りのない料理を楽しみ、ぽつりぽつりと言葉を交わす。
酒も進み、ほんのりと頬を染めた秀が、口元に持っていきかけた杯を、ふと止めた。
「・・・三味線屋」
まただ。
勇次は、密かに眉をひそめた。
躊躇うように一度口を閉ざした秀が、思い切ったように口を開いた。
「俺は、もう大丈夫だから」
唐突な言葉に、勇次が訝しむ目をした。
秀は、手にした杯に目を落としたまま、続けた。
「だから、もう、こんな風に誘ってくれたりしなくていいんだ」
「迷惑なのかい」
勇次の問いに、秀は小さく頭(かぶり)を振った。
「そんなんじゃねぇ。ただ、もうこれ以上、気を遣わねぇでくれ」
「気を遣ったつもりは、ねぇんだがな」
秀の様子に不審を抱きながら、勇次は杯を呷った。
秀はまた、言いにくそうに、眉をひそめた。
「・・・あんなことがあって、それをお前ぇに知られて、俺はどうにかなっちまいそうだった。だから、お前ぇに縋った」
勇次は、黙ったまま、じっと秀の顔を見つめた。
「縋られて、お前ぇは突き放すこともできずに、ただ俺を憐れんで、それで・・・」
すっ、と勇次の眸が細められた。ひたと秀の顔を見つめる。
「お前、俺が憐れみで、お前ぇを」
言いかけて、勇次は杯を干すと、懐から紙入れを取り出した。小粒を幾つか卓の上に放り出し、立ち上がる。
「ここでできる話じゃねぇ。帰ぇるぞ」
小上がりから下りると、秀の腕を掴んだ。
秀は、その手をやんわりと外して言った。
「先に帰ぇってくれ。俺は、もう少し飲んでくから」
勇次の眸に、ちかりと光が閃いた。秀の腕を掴み直し、引きずるように立ち上がらせる。
「いいから来い」
「三味線屋!」
抗う秀を、半ば引きずるように店を出る。
秀の腕を掴んだまま、往来を歩いていく。まだ、それほどの深夜でもなく、疎らでも、人の通りはある。行き交う者の中には、振り返っていく者も少なくない。
「放せよ、三味線屋」
決して名前を呼ぼうとしない秀に、勇次は苛立ちを覚えた。
「人が見てるだろっ」
秀の言葉に、勇次は足を止め、振り返った。
「だから、何だ」
冷たい怒気を孕んだ眸に見据えられて、秀は目を逸らした。
いきなり、掴まれた腕を捩じ上げられ、秀は痛みに顔を歪めた。
そのまま、堀端の暗がりに引き摺り込まれる。
秀は、はっと目を見開いた。
ここは・・・。
目の前が、くらりと揺れた。膝がかくりと崩れる。
「秀っ」
秀の様子が突然おかしくなったのを見て、勇次は顔色を変えた。
ここは、秀の長屋にも近い。だが、秀はここを避けている様子だったことを思い出す。
まさか。
ここで秀は捕らわれ、そして、あの寮に連れ込まれたのか。
見開いた目は、何も見ていないようだった。青褪めた額は、汗に濡れている。
勇次は臍を噛む思いで、小刻みに震える秀の肩を抱き、抱え起こした。
ふらつく身体を支えるようにして、足早に秀の長屋に向かった。
長屋に入り、秀を支えて座敷に上がる。秀をゆっくりと座らせた。
秀は、荒い息を吐き、震える己れの肩を抱き締めた。
勇次は、火の消えた火鉢に置かれたままの鉄瓶を取り上げ、湯呑みに湯冷ましを注いで、秀に差し出した。
秀は、目を伏せたまま、湯呑みを受け取り、口をつけた。湯呑みを持つ手が、かたかたと震える。
勇次は、湯呑みを持つ秀の手に、そっと手を添えた。
「すまない」
勇次は、静かに詫びを口にした。知らなかったとはいえ、秀の傷を抉るような真似をしてしまった。苦い後悔に、胸が軋む。
はっと目を上げた秀を、ひたと見つめる。
「お前ぇは、俺が、憐れみでお前ぇを抱いたと言ったな」
つと、秀の目が逸れた。
「俺は、お前ぇの傷を覆い隠してしまいたかった。消せると思った訳じゃねぇ。ただ、お前ぇを抱くことで、俺をお前ぇに刻みつけることで、お前ぇの傷を、俺の記憶にすり替えちまいたかった」
勇次は、ふっと息を吐いた。
「お前ぇが、俺に狂えばいいと思ってた」
秀の長い睫毛が震えた。
「だが、お前ぇは、俺に抱かれるたび、手前ぇの傷をまざまざと見せつけられてた。俺は、お前ぇの傷を隠そうとして、却って傷を抉っちまってた。いや、俺自身がお前ぇを傷つけてた」
秀が、ゆるゆると頭(かぶり)を振った。
「俺は、たぶん、誰に抱かれても、同じように狂う。そういう身体になっちまったんだ、あの時に。そんな浅ましい姿を見れば、愛想を尽かして当たり前だ」
勇次が、つと眉を寄せた。
「俺は、愛想を尽かしたりしちゃいねぇ」
勇次は、秀の頭を抱き寄せた。
「お前ぇがうなされるのを、何度も見た。俺が見たくなかったのは、そんなお前ぇの姿だ」
秀は、勇次の胸に手を当て、身を離した。
「俺を憐れむのは、やめてくれ」
秀は、眉根を寄せて俯いた。一つ息を呑んで、口を開く。
「俺は、お前ぇと居られれば、それでよかった。それ以上のことは、望んじゃいねぇ。けど、それは、俺の一方的な想いだ。お前ぇを縛りつける訳にはいかねぇ」
「そいつぁ、また随分と一方的な言い草だな」
俯いたままの秀の肩が、ぴくりと揺れた。
勇次は、胸に当てられたままの秀の手を掴んだ。逃がれようとする秀の背に腕を廻して、抱き寄せる。
「俺は、お前ぇを憐れんだ訳じゃねぇ。ただ、お前ぇが欲しかっただけだ」
秀は、勇次の腕の中で、苦しげに眉を寄せた。
「もう、やめてくれ。また、お前ぇに縋っちまう。憐れみだと分かってても、俺は・・・っ」
「何故、俺を信じない」
秀は、勇次の肩に顔を伏せるように俯いた。
「これ以上、このまま、お前ぇの側にいるのは辛ぇ。いっそ、何もなかった頃に戻る方が、いい」
勇次は、ふっと息を吐いた。
「それで、お前ぇの方から、愛想尽かしをしたのかい」
勇次の腕の中で、秀の身体がぴくりと震えた。
「俺のものになりなよ、もう一度。心だけで構わねぇから」
勇次は、秀を抱く腕に力を込めた。
きつく抱き締められて、切なさに秀は睫毛を震わせた。
「抱いて、くれよ。もう一度だけ。一度だけで、いいから・・・」
秀の声が震えた。
勇次が二度と触れないというなら、それでも構わない。
ただ、最後にもう一度だけ、その腕に抱かれたかった。この身体のすべてに、勇次の熱を刻みつけたかった。
勇次は、つと眉を寄せた。
「・・・買い被るな。心底惚れたお前ぇ相手に、一度きりで済ませられるほど、俺は出来ちゃいねぇ」
勇次の言葉に、きりきりと胸が切なく軋んだ。秀は、勇次の背中に腕を廻し、縋りつくように衣を掴み締めた。
「勇次・・・」
ようやく名前を呼んだ、秀の誘うように甘く濡れた声に、勇次は、秀の身体を静かに畳の上に横たえた。
「もう止められねぇよ」
真っ直ぐに、秀の眸を覗き込む。秀の眸は、微かに潤んでいた。
秀が、勇次の頬に手を触れた。
「俺は、お前ぇになら、つき殺されたって構わねぇ」
薄く笑みを刷いた勇次の唇が、秀の唇に触れる。秀は、静かに目を閉じた。
そのまま深くくちづけられて、閉じた目尻から涙が零れ落ちた。
ああ。
抱かれたかったのは、この腕。
触れたかったのは、この唇。
溺れていたのは、この指が紡ぎ出す悦び。
狂おしいほどに求めていたのはーーー
「勇、次・・・」
幾度となく勇次の熱を受け止めて、秀は意識を手放した。


秀は、くったりと力なく、勇次の胸に頭を凭せかけて眠っている。肌に触れる寝息は、規則正しく、穏やかだった。
勇次は、ふっと息を吐いた。
今度こそ、本当に手に入れた。
柔らかな髪に指を絡めて、胸深く抱き寄せる。
恋うるがままに、この腕に抱く、愛しい者。
勇次は深く息を吐き、目を閉じた。
[終]


2017.7.13

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