相思 〜続・時雨〜 《前篇》


《壱》


ほとほとと表の戸を叩く音に、勇次は目を覚ました。
閉てた雨戸の隙から漏れ込む陽の光は、もう午に近い。
「ん・・・」
傍らに眠る秀が、小さく身動ぎをした。
一昨日、身動きもできなくなるほどに抱いた秀を、長屋に帰さないまま、また明け方まで思うさま抱いてしまった。
秀はまだ、身を起こすこともできないだろう。
「もう少し、寝てろ」
気怠げに瞼を持ち上げる秀を制して、勇次は身を起こした。着物を羽織り、帯を締めながら店に出る。
閉てたままの表戸の潜り戸を開けると、旅装のおりくが立っていた。
「おっかさん・・・」
腰を屈めて潜り戸を抜けたおりくが、ちらりと笑った。
「こんな時分まで店も開けないなんて、また随分と羽根を伸ばしていたようだね」
痛いところを突かれて、勇次は困ったように首を掻いた。
「すみません」
軽く頭を下げて、神妙におりくの三味線を受け取る。
「謝るこたあないさ。勇さんの遊びは、今に始まったことじゃないんだから」
上り框に腰を下ろし、草鞋の紐を解きながら、おりくが笑った。
「いつも母子(おやこ)で顔突き合わせてるんだ。一人の時くらい、お互い気ままにするくらいでいいだろうさ」
立ち上がったおりくが、暖簾を分けて居間に入る。
後から入り、茶の仕度を始めた勇次をちらりと見やって、おりくは長火鉢の前に腰を下ろした。
「雨戸を開けてくるよ」
おりくの前に湯呑みを置いた勇次が、立ち上がる。
「寝かせといておやりよ」
おりくの言葉に、勇次はぎくりと足を止めた。
おりくは澄ました顔で、湯呑みを取り上げた。
「ああ、美味し」
ほっと息をついたおりくの眸に、悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
「今度ばかりは、勇さんも本気らしいねぇ」
勇次は、思わず目を瞠った。
「そんなんじゃないよ」
困ったように苦笑いを浮かべる勇次を見て、おりくがくすりと笑う。
「誤魔化したって駄目だよ。これでも親の端くれなんだ。そのくらい分かるさ」
「おっかさん・・・」
おりくの目を避けるように、すっ、と目を伏せた勇次は、唐紙に手をかけた。
「とにかく、雨戸を開けてくるよ」
居間を出た勇次は、ふっと息を吐いた。とても、おりくの目は誤魔化せそうにない。
おりくが自身で言うように、養い親とはいえ母親だからなのか、長く仕事人として裏街道を歩いてきたからなのかは、わからないが。

勇次が寝間の戸を引き開けると、思った通り、そこに秀の姿はなかった。
もとより、他の者の気配のする家にとどまる秀ではない。まして、おりくが帰ったのを知れば、気配も消して忍び出るに決まっている。
無理をさせてしまった。
勇次は、つと眉を寄せた。
長く、秀に対する想いに囚われてきた。その秀をようやく手に入れて、らしくもなく、歯止めの利かないままに抱いた。
それだけでも、随分と無理をさせたのに。
午後も遅くなって、ようように身を起こせるようになった秀を、また抱いてしまった。
その為に、今また、まだ動くのも辛いだろう身体で無理をさせてしまった。
昨夜のうちに、帰しておけばよかった。
ふっと深く息を吐いた勇次は、雨戸を開け、まだ情事の名残りが残る寝間の空気を入れ換えた。
寝乱れた夜具を手早く畳み、押し入れにしまうと、勇次は居間に戻った。
ちょうど、着物を改めたおりくが、座敷に戻ってきたところだった。
「帰っちまったようだね」
長火鉢の前に腰を下ろして、煙管を取り上げたおりくが言った。
「ええ」
今さら、隠しようのある筈もない。
さすがに、奥にいたのが秀だとまでは、気づいていないだろうが。
勇次は、神妙におりくの向かいに座った。
「まあ、あたしと顔を合わせる訳にもいかないだろうしね」
「それは・・・俺が引き入れただけで・・・」
おりくの留守に、まるで泥棒猫のように上がり込んだかのように言われて、勇次は慌てて秀を庇った。
その勇次をちらりと見やって、おりくはふうっと煙を吐き出した。
「嫌だねぇ、何も、嫌味で言ってる訳じゃないよ。本気でもないのに、うちに上げる勇さんじゃないんだし。ま、あたしだって顔を合わせちゃバツが悪いしさ」
おりくは、表情を変えて、ふふっと笑った。
「あたしもまた、随分と野暮な真似をしちまったもんだ。せっかく勇さんの想いが叶ったっていうのに、折悪しく帰ってきたりして・・・」
「おっかさん、知ってたのかい」
何もかもを見透かしているようなおりくに、勇次は内心、驚いた。
盛んな女遊びを止めた訳でもなく、ただ一方で、密かに、秀に心惹かれていただけだ。
誰にも気取られることはないと思っていた。
「おっかさんには、敵わないな」
勇次は、ふうっと息を吐くと、呆れたように笑った。
どう転んでも、おりくの前では、勇次もただのガキに過ぎないのだろう。
早晩、何もかも知られてしまいそうだ。
勇次は、心の内に苦笑いを浮かべた。



《弐》


結局払わずじまいになっていた簪の代金を懐に、勇次は秀を訪ねた。
秀の長屋に近づくと、コツコツといつもの軽快な小槌の音が聞こえてきた。
勇次は、ふっと柔らかな表情を浮かべた。
からりと表障子を開けると、秀が顔を上げる。
一瞬きょとんとした秀は、次の瞬間、ふわりと柔らかな笑みを浮かべた。
「どうしたんだよ」
「いやな・・・」
勇次は、上り框に腰を下ろしながら、答えた。
「こいつを渡そうと思ってよ」
懐紙に包んだ金を床に置き、つっと秀の方へ押し遣る。
「何だよ、これ」
怪訝な顔をする秀に、勇次は苦笑した。
「何って、この前の簪の代金だよ。前金も払ってなかったろ」
虚を突かれたように、秀は、あ、と小さく声を漏らした。
それから、ふっと含羞かんだ笑顔を浮かべた。
「別に、よかったのによ」
「そうはいかねぇよ。商ぇは商ぇだろ」
柔らかく笑いながらも、生真面目に言う勇次を見て、秀は面白そうに笑った。
「意外ぇと律儀なんだな」
「意外ぇは余計ぇだよ」
笑う勇次を見ながら、秀は包みを開いた。二両が包まれていた。
「これぁ多過ぎるよ」
秀が、懐紙ごと、勇次の前に押し戻した。
「取っときなよ」
「そうはいくかよ。商ぇは商ぇだろ」
勇次は、くっくっと喉を鳴らして楽しげに笑った。
秀は、笑う勇次を横目に、丼から一分銀を二枚取り出し、勇次の前に差し出した。
「ほら、釣り」
「おいおい、律儀なのぁどっちだよ」
くつくつと喉を鳴らして笑う勇次に、秀はむっと唇を尖らせた。
「職人ってなぁ、律儀でねぇと信用されねぇんだよ」
「分かったよ」
勇次は、またくつくつと喉を鳴らして、突き出された秀の掌から金を摘み上げた。
「それより、お前ぇ大丈夫だったかい」
勇次の言葉に、秀は、怪訝な顔で勇次を見返した。
「身体だよ。この前ぇ無理して帰ぇったろ」
「ばっ・・・馬鹿やろ」
秀は、さっと、耳まで赤く血を上らせた。
「あれぐれぇ、たいしたこたねぇよ」
勇次の視線を避けるように目を逸らして、秀は言葉を継いだ。
「それより、お前ぇこそ大ぇ丈夫だったのかよ」
今度は、勇次が怪訝な顔をする番だった。
「何が」
勇次の問いに、秀は目を逸らしたままで答えた。
「おりくさんだよ」
「ああ」
勇次は、一人得心したように頷いた。
「おっかさんには、知られちまってるよ」
さらりと言われて、秀は一瞬何を言われたのか分からなかった。
次の瞬間、羞恥と狼狽で、またかああっと顔を赤くした秀は、勢いよく勇次に向き直った。
「知られたって・・・そんじゃ俺は、どんな顔しておりくさんに会やいいんだよっ」
秀の勢いに、一瞬目を丸くした勇次は、秀を宥めるように笑みを浮かべた。
「落ち着けよ。まさかに、相手がお前ぇだったとは、知られちゃいねぇよ」
秀が、訝しげに勇次を見た。
「俺が、おっかさんの留守に、惚れた女を引き入れたと思われてるだけさ」
「そっか」
秀は、ホッと胸を撫で下ろした。
「もう、おりくさんとは仕事ができねぇと思ったよ」
根が素直な秀の表情は、感情の動きそのままにころころと変わる。笑ったり怒ったり拗ねたりと、忙しい。
裏に殺しの顔を持っているとは信じられないほどの屈託のなさが、勇次にとってはかけがえのない救いだった。
ふっと込み上げてくる愛おしさに、勇次は手を伸ばし、秀の手を取った。
「勇次」
怪訝な顔をする秀の腕を引き、戸惑う体を抱き寄せ、唇を重ねる。僅かにもがく身体を、きつく抱きすくめて逃さない。
ふっくらと弾力のある唇を堪能するように、角度を変えながら、くちづけを繰り返す。
秀の頬に赤みがさし、身体から力が抜けていく。
勇次が、覆い被さるようにその身体を押し倒した。
「か、加代が・・・」
「加代が、なんだよ」
突然秀の口から飛び出した、加代の名前に、勇次は僅かに顔を顰めた。
「あいつ、いつも勝手に開けて入ってくるから・・・」
確かに、加代という女は、恥じらいもなければ遠慮会釈もない。秀とは付き合いの長い分、男女の別を超え、また裏の仕事の繋がりをも超えた、奇妙な友情とでも呼ぶべきものが醸し出されている。
加代は、用事とあれば、声をかけるより先に表の腰高障子を引き開けるだろう。
「ふ・・・ん」
少し考える目をした勇次は、す、と身を起こした。
勇次から解放された秀がホッと息をつくと、勇次は身軽に立ち上がり、土間へと下りた。
秀は、乱れた襟元を直しながら、勇次の背中を目で追った。
勇次は、心張り棒を取り上げると、しっかりとかった。
ぱんぱんと、わざとらしく手を叩き(はたき)、秀を振り向いてにやりと笑った。
目を丸くして勇次を見ている秀の傍に膝をつき、その肩を抱く。
「これで心配いらねぇだろ」
「な、ちょ、待てよ、勇次っ」
耳まで真っ赤にして慌てる秀を、そっと畳の上に押し倒す。
「待てって、勇次」
腕を突っ張るようにして、身を離そうとする秀の耳元に勇次が囁いた。
「そんなに嫌かい」
「そんなんじゃ・・・こんな昼日中から、こんなこと・・・」
もとより初心なところのある秀が、白日の下(もと)、抱き合うことに抵抗があるのは、勇次とて分かっている。
だが、勇次は見たいのだ。明るい日差しの下、自分に抱かれて乱れる秀を。
乱れることに羞じらい、羞じらいながらも乱れる。
初めて抱いた時に見せたあの姿を、白日の下に見たい。
その姿を白日の下に晒すことに、秀が抵抗を感じていることを分かっていながら、少しばかり嗜虐的なその欲望を、勇次は抑えられなかった。
「お前ぇが欲しいんだよ、秀」
甘く囁くと、勇次は秀に深くくちづけた。

また、やってしまった。
また、歯止めの効かないままに、秀を抱いてしまった。
勇次に思うさま抱かれた秀は、意識を手放して、くったりと勇次に身を委ねている。
箪笥に背を凭せ掛けた勇次の肩に、頬を埋めるように凭れかかった秀は、今は、落ち着いた寝息を立てていた。
柔らかな髪を撫でていると、秀が目を覚ました気配がした。
「あ、俺・・・また・・・」
秀が掠れた声で呟く。
また、勇次との閨事(ねやごと)に溺れて、前後不覚になったのか、と秀は己が醜態を恥じた。
「も少し、眠っていなよ」
そう言った勇次が、柔らかな髪を撫でた時、 ばたばたと表の腰高障子に駆け寄る騒々しい気配がした。
勇次も秀も、はっと目を上げる。
「秀さん、いるぅ?」
辺りを憚る気配もない加代の声だった。
「ちょっとお米切らしちゃってさぁ、貸してほしいんだけどぉ」
言いながら、腰高障子を開けようとガタガタ言わしている。
思わず声を上げそうになった秀の口を、勇次の手が塞いだ。
そろりと勇次と目を見交わし、秀は息を詰めた。
「ちょっとぉ、いないのぉ」
諦めきれずに障子をガタガタ言わしていた加代だったが、ようやく留守だと諦めたらしく、ガンっと障子を蹴りつけた音がした。
「もう、肝心な時にいないんだからっ」
来た時と同じようにばたばたと騒々しい足音が隣の部屋へと遠ざかる。
勇次も秀も、思わずほうっと大きく息を吐いた。
勇次は、秀の顔を覗き込むと、ちらりと笑みを浮かべた。
「心張り棒かっといてよかったろ」
「ばぁか」
小さく呟く秀の頭を抱き寄せて、勇次が囁いた。
「も少し、眠りな」
されるがままに勇次の肩に頭を凭せかけて、秀は目を閉じた。
[続]


2017.6.4

[Storys]