Call


「ああ、ボギー。久しぶりだな」
電話口の原の声は、いつもと同じく柔らかく心地よかった。味気ない受話器の向こうに、柔らかな原の笑顔が見えるようだった。
春日部は、何とはなしに鼻の奥がつんとするような気持ちがして、受話器を握りしめたまま、黙り込んだ。
「ボギー?どうかしたのか?」
少し訝しげな原の声が問う。
春日部は、頬を掻きながら、口を開いた。
「・・・俺なぁ、またドジ踏んだんだよ」
「どうしたんだ?」
原の柔らかな声が、急かすでもなく先を促す。
「給料を、な、全部貸しちまったんだ」
「全部?誰に?」
「あ、いや、その・・・ひったくり野郎に・・・」
受話器の向こうで、原が押し黙る気配がした。
「や、その、話を聞いたらな、可哀想な奴だったんだ。だから、その・・・」
原が、ふっと溜息を吐く。
「それで同情して、有り金全部貸して、無罪放免にしたのか?」
詳しく話す前に、ほとんど有りのままを言い当てられて、春日部は返す言葉もなかった。
「しょうがないなあ、ボギーは」
ちょっと呆れたような声が、受話器から零れ落ちる。
「何だよ!ジプシーまで・・・俺はなぁ」
「だけど、ボギーのそういうところ、好きだな、俺は」
呆れたような気配にムッとして、言い募ろうとした春日部は、原の言葉にどきりと胸が跳ねるのを感じた。次の瞬間、暖かなものが胸に広がる。
「ジプシー・・・」
「刑事としては、よくないことかもしれないけど、ボギーはそこがいいんだと思うよ」
大丈夫。
そう言って微笑む原の姿が目に浮かんだ。
「ありがと、な。ジプシー」
春日部は、照れ臭そうに笑った。
「うん、やっぱ、お前に電話してよかったよ」
それから、一つ呼吸をおいて続けた。
「お前の声聞いて、元気になった」
「だったら、嬉しいよ」
笑みを含んだ原の声が、柔らかく耳をくすぐる。
春日部は、もっと原の声を聞きたくて、言葉を探した。
「あ、なんだ、その・・・そっちはどうだ?うまくやっとるか?やっとるよな、お前は優秀だし・・・」
何故だかドキドキしてしまい、どぎまぎと言葉を継ぐ。
「そうだな・・・うまくやれてるの、かな?・・・やっぱり・・・」
ふと曇った原の声が途切れた。
「ジプシー?」
やっぱり?
やっぱり、何だ?
途切れた言葉の先が気になったが、その先を聞いてはいけないような気がして、春日部はただ原を呼んだ。
「いや、何でもないよ、何でもない」
明るく取り繕った原の声に、春日部は微かな苛立ちを覚えた。
「何だよ、言えよ!何かあったのか?」
思わず口調がきつくなる。
「あ、いや、その・・・俺には言えんか?まあ、俺は単純じゃけん、頼りにはならんけど・・・」
原の為には何でもしてやりたいとは思うものの、春日部よりずっとしっかりしていて優秀な刑事である原に、自分が何をしてやれる訳でもない、と声が小さくなっていく。
ホントに俺は馬鹿だから。
我とわが身がもどかしくて、春日部は頭をがしがしと掻いた。
「ありがとう、ボギー。そう言ってくれるだけで嬉しいよ」
柔らかな原の声に、春日部は少し切なくなった。
「そんなこと言うなよ。何かあるなら、俺にも聞かせてくれよ」
春日部の言葉に、受話器の向こうで原が押し黙る気配がした。
短い沈黙の後、小さな吐息が漏れた。
「ホントのところ、うまく行ってないんだ」
原の声が、物憂げに曇る。
「ジプシー?」
「望まれてこっちに来たけど、やっぱり七曲署の皆とのようにはいかなくて・・・俺には無理なのかなって」
春日部は、原が七曲署に来た当初を知らない。春日部が七曲署に赴任した頃には、原は頑固ではあるけれど人当たりが悪い訳でもなく、魅力的な男だった。
だが、原が七曲署に来る前はいろいろな署を転々として来たことは聞いていた。七曲署に来た当初も、取りつく島もないような有様だったと西條が言っていた。正直、春日部の知る原からは想像がつかない姿だが、どこか頑なで不器用なところがあるのは、春日部も知っていた。
「ジプシー、その・・・同僚とうまくいかんのか?」
恐る恐る訊いてみる。
「俺はどうしても一人で動いてしまうから・・・それが気に入らないんだろうな。結局、俺は七曲署の皆に甘えてたんだよ」
受話器から聞こえる声には、隠しようのない自嘲の色が滲んでいた。
「ジプシー・・・」
何を言ってやればいいのか。
春日部は、気の利いた言葉の一つも掛けてやれない己の不甲斐なさに唇を噛んだ。
「・・・会いたいな」
低く通る原の声が呟いた。
「だったら、だったら今から迎えに行ってやる!ドックやラガーも呼んで・・・」
春日部は勢い込んで言った。
「そんなの、悪いよ」
原らしくもない弱い声に、春日部は畳み掛けるように言葉を継いだ。
「とにかく、今から行くから待っとれ!」
そのまま、原の返事も聞かず受話器を置くと、ルノーのキーと放り出していた上着を引っ掴み、アパートを飛び出した。
会いたい。
たとえ原が言わなくても、春日部こそが原に会いたかった。
原が、会いたいと言うのなら、一も二もなく会いに行く。
静かに眠る深夜の街をルノーを駆り、西へ向かってひた走る。
聞いていた住所を頼りに、原のアパートを探し出し、車を停めた。
キーを抜き取るのももどかしく車を飛び出し、二階へと駆け上がった。
ドアの前に立った途端、内側からドアが開いた。
「ボギー」
驚いて見つめる先には、原が目を丸くして立っていた。
「本当に来たのか」
原の言葉に、逆上せ上がっていた頭から血の気が引いた。
「あ、悪ぃ・・・いきなり、迷惑だったよな」
会いたい気持ちに突き動かされるままに車を走らせて来たものの、真夜中の訪問が歓迎される訳がない。
春日部は、しょんぼりと俯いた。
「本当に来てくれるなんて、思ってなかった」
「え?」
原の言葉に、春日部は慌てて目を上げた。
そこには、含羞むような原の笑顔があった。
「ジプシー」
「来てくれて、ありがとう。とにかく中、入れよ」
にこりと笑った原に促され、原の部屋に上がり込む。
初めて訪ねた原の部屋は、無駄な物のない、むしろ一つ間違えれば無味乾燥になりかねない簡素な部屋だった。
「ビール、はダメか。車なんだよな、ボギー」
「あ、ああ。さすがに刑事が飲酒運転じゃシャレにならんからな」
内心、残念に思いながらも、明日も出勤しなければならない以上、早朝には車を出さなくてはならず、春日部は原に頷いてみせた。
「何もないけど、お茶でいいか?」
そう尋ねながら、台所に向かう原の後ろ姿に、春日部は声を掛けた。
「なあ、どうせ酒も飲めんのなら、ちょっとドライブでもせんか?」
くるりと振り返った原が、小首を傾げて瞬きをした。
「ドライブ?」
「ああ、ちょっと足延ばして、海でも行かんか?」
じっと見つめてくる原の眼差しにドギマギして、春日部は頭を掻いた。
「明日に差し支える、かな・・・」
春日部の言葉に、原がにこりと微笑んだ。
「大丈夫。そんなに柔じゃないよ」
「そうか!そうだよな!」
春日部は嬉しくなって、相好を崩した。
「海なんて、何年振りかな」
原が、嬉しそうに笑った。
肩を並べて部屋を出て、ルノーに乗り込む。
「じゃあ、行きますか!」
春日部は、浮かれた声でそう言うと、車を走らせた。夜の高速を抜けて、埠頭にたどり着くまで、原は子どものように、窓の外を流れて行く景色を眺めていた。
「少し、歩かないか」
埠頭で車を停めた春日部を振り向いた原が言った。
二人で月明かりの下を、突堤の先に向けてゆっくりと歩く。
「綺麗だな・・・」
ちょうど満月の丸い月が、突堤の先の水面に金色の影を落としているのを見た原が、感嘆したように呟いた。
月明かりに浮かぶ原の横顔があまりにも綺麗で、春日部はつい言葉もなく見惚れていた。
「どうかしたか、ボギー」
振り向いた原が、訝しげに春日部の眸を覗き込んだ。黒眼がちの大きな眸に見つめられて、春日部の鼓動が速くなる。
「いや、何でもない!」
慌てて、首を振る。
綺麗だから見惚れていたなんて、口が裂けても言えるはずがない。
一人胸に呟く。
「ありがとな、ボギー」
原が静かに微笑った。
「正直、落ち込んでたんだ。俺はやっぱり一人なんだって。でも、ボギーは来てくれた、こんな夜中に海に連れて来てくれた」
原は一つ瞬きをして続けた。
「本当に嬉しいんだ。ボギーが俺のこと忘れずにいてくれて、電話をくれたこと」
「あれは・・・俺が聞いて欲しかったんだ、お前に。俺の方こそ落ち込んどった。落ち込んで、ジプシーの声が聞きたくなったんじゃ」
赤くなる春日部を見て、原は嬉しそうに微笑んだ。
「それが嬉しいんだ。俺にそんなこと言ってくれる人はいなかった。ずっと。ずっと俺は一人だったから・・・」
「ジプシー」
春日部は、原の永い孤独を思い、胸が詰まる思いがした。
「俺は、ジプシーが好きじゃ。だから、ジプシーの声が聞きとうなるんじゃ」
「ボギー」
春日部の言葉に、原の眸が戸惑うように揺れた。
「迷惑かもしれんけど、俺は、お前が好きだ。だから、お前の声が聞きとうなるし、会いたくもなる」
まともに目を合わせられず、明後日の方を向いて呟く。
大きな眸を見開いていた原が、くすぐったそうに微笑った。
「迷惑な訳、ないだろ。俺もボギーのことが好きだもの。今日だって、声を聞いたら、会いたくて堪らなくなったんだ」
「ジプシー・・・」
「今度は、俺が会いに行くよ。ボギーが迷惑だって言っても会いに行く」
そう言って、原はにっこりと笑った。その笑顔に釣られるように、春日部の顔にも笑みが広がった。
「迷惑な訳、ないだろ」
このまま、時が止まればいいのに。
このまま、ずっと一緒に月明かりに照らされていられたら。
叶うことのない願いを、胸に呟く。
「そろそろ戻るか」
心とは裏腹に、原を促すと、原が少しさみしげに眼を伏せた。
「このまま、ずっと一緒に月を見ていられたらいいのにな・・・」
低い呟きに、胸を衝かれる思いがして、春日部は原の肩を抱いた。
「また観に来ようや」
原が、微かに頷いた。
「きっと、な」
月明かりの下で、顔を見合わせて二人は微笑みを交わして、ゆっくりと歩き出した。
きっと。また。いつか・・・
そんな想いを、それぞれの胸に刻んで。
[END]

2013.09.21
[Story]