あいつの女遊びは、今に始まったことじゃない。飯を食うように、女を摘まんで歩く。そういう男だった、初めから。
だから、今さら、なのだ。今さら、あいつにしなだれかかる女を見て、腹を立てても仕方ない。あいつが女の肩に腕を廻して笑っているから、と苛ついても馬鹿馬鹿しい。
そう思って、秀は踵を返した。後ろ髪を引かれる思いを断ち切るように、足を速める。
苛立ちをぶつけるように、長屋の表の障子戸を音を立てて閉めた。そのまま、はあ、と大きな息を吐いて仄暗い天井を見上げる。
どうかしている。今さら女に妬くなんて。つまみ食いされているのは、自分だって同じだ。
自嘲の笑みが口元に浮かぶ。
ちょっと変わった菓子を摘まむように、ちょっかいをかけただけの事。ただそれだけのこと。あいつにとっては、それ以上でもそれ以下でもない。
そんなことは、端から分かっていたこと。
そう思ってみても、胸がきりりと痛んだ。
どうして好きになってしまったんだろう。あんな不実な男を。
悔しさに唇を噛んだ。あんな男に振り回される己が口惜しかった。
思えば、好きだと言った覚えもなければ、好きだと言われた試しもない。ただ、気まぐれに訪なう男の腕に、身を委ねただけ。
はじまりのあの日。悪戯な指に、どうして応えてしまったのか。
そもそも。
裏の稼業でかかわりのできた男だ。本来、狎れ合っていい相手ではない。ましてや、割りない仲になるなど、愚かにもほどがあった。八丁堀にでも知られた日には、ただでは済まないだろう。
もう、終わりにしよう。
大きく一つ息を吐いて、秀は作業机の前に腰を下ろした。

「秀、いるか?」
言いながら、からりと障子戸を開いた男の姿に、眉を顰めて秀は目を手元の簪に落とした。
「何か用か」
ぼそりと呟く。
「なんだ、ご挨拶だな」
そう言って笑うと、勇次は上り框に腰を下ろした。
「ちょいと近くまで来たもんだからな」
半身を開くように上半身を秀に向けて、勇次は笑みを浮かべた。
秀は殊更に、とんとんとんとん、と槌の音を響かせた。
「用がねえなら、帰ぇれよ」
簪から眼を上げずに、言葉を投げつける。
「相変わらず、つれねぇ奴だなあ」
言葉とは裏腹に、面白がる素振りの勇次に苛立ちが募る。
「俺はお前ぇの相手をするほど暇じゃねぇ」
だから、もう終わりにする。お前のことで気を揉むのも、お前を待つのも。
そう心の内に呟く。言葉にすることさえ、癪だから。
す、と秀の眸に過ぎった翳に気づいたのか否か、勇次はふと息を吐くと、するりと立ち上がり、座敷に上がり込んだ。咎める間も無く、裾を捌いて秀の隣りに胡坐をかく。
「お前ぇ、何を拗ねてるんだ?」
言い様、鑿を握った左手をついと掴み、そのままぐいと引いた。
「危ねぇだろっ」
鑿の先が勇次に当たらぬように左手を取り戻そうとするところを、更に引く。体勢を崩した秀の肩を抱き、胸の中に取り篭めた。
「せっかく暇(いとま)を見つけて会いに来たってぇのに、そうつれなくするもんじゃねぇよ」
甘く柔らかい声が、秀の耳をくすぐる。そのまま心を持って行かれそうで、秀は身を捩り、勇次の腕から逃れようと藻掻いた。
「せっかくの暇(いとま)だってんなら、女のとこへ行きゃいいだろっ」
勇次が、くっと咽喉を鳴らして笑った。
「なんだ、お前ぇ妬いてんのか」
勇次の言葉に、藻掻いていた秀の動きが止まった。
「そんな訳ねぇだろ」
ぷいと顔を背ける。
勇次はつと眼を細めると、秀の右手に握られたままの槌を取り上げ、左手を掴んだ手にぐっと力を込めた。ぽとりと鑿が煤けた畳の上に落ちる。
「素直じゃねぇなぁ」
くつくつと笑った勇次が、秀の耳に唇を寄せた。口づけんばかりにして囁く。
「わざわざ暇(いとま)を作って、お前ぇに会いに来たんだぜ?」
久方ぶりにお前ぇを抱きたいと思ってよ。
そう続ける勇次の声はひどく艶めかしく、秀の鼓動はとくとくと速く打ち始めた。
くらりとする熱を振り払うように、秀は頭を強く振った。
「・・・俺は、お前の女じゃねぇ」
秀の低い呟きに、勇次の声が応えた。
「当たり前ぇだ」
女を抱くのは、一夜の契り。後腐れのない、遊び。ただ、それだけのこと。ほんのひととき、暖めあうだけの関わり。
だが。
「お前ぇは、別だ」
秀の身体を抱く腕に力を込める。
どうしてだかは、勇次にもわからない。それでも、勇次にとって秀の存在は特別なものだった。
出会った頃は、互いに張りつめた関わりだった。心許すこともなく、互いの距離を窺い、裏の仕事絡みでは牽制し合ってもいた。
それがいつからか、互いを認め合い、仕事の時の呼吸もピタリと合うようになった。
収まるところに収まった。そんな心持ちだった。
そうして。
気がつくと、秀のことが心にかかるようになっていた。
黒目がちの眸。柔らかな髪。まろい頬。職人とも思えないすんなりとした手指。
闇に生きる『仕事人』としては甘すぎるところのある真っ直ぐな気性。勇次から見れば、『仕事』の腕はともかく、どうにも危うげで放ってはおけない。
手を出したのは、気紛れではない。心揺らしながら他人の命を手にかける秀の危うさを愛おしんだからだ。危うく揺れるその心ごと、抱きしめて繋ぎとめておきたかったからだ。

「俺は、お前ぇに惚れてるんだよ」

びくりと体が強張る気がした。
いつも柔らかで荒げられることのない声が、よりいっそう甘く艶めかしく耳を打った。
そんな言葉、どこの女にも囁くんだろう。
そう言い返そうとして、だが、声が出せなかった。胸の奥がきりきりと痛んだ。
ずっと欲しかった言葉。言いたくて、だけど言えなかった言葉。
あまりにさらりと囁くから。
だから。
信じたくて。だけど、信じられなくて。
こいつにかかわり合いのある女は、星の数。そんな女たちにも、きっと同じことを言うんだ。
そう思う端から、甘い言葉をそのまま信じてしまいたくなる。何もかも投げ出して、縋りたくなる。
ぎゅっと瞼を閉じて、唇を噛んだ。
「信じてねぇんだな」
柔らかな声が、ふと曇った。
「・・・当たり前ぇだろ」
咽喉に声が絡んだ。哀しいような気持ちになって、胸が痛んだ。
きゅっと眉根を寄せて、唇をさらにきつく結んだ。
「・・・自業自得、か」
溜息のような声が、ぽつりと零れた。
次の瞬間、くるりと身体を入れ替えられて畳の上に倒れ込む。
はっと開いた眸に、少し哀しげに眉を顰めた勇次の白い顔が映った。
どきりと胸が跳ねる。
どうして。
どうしてお前がそんな顔をする。
「三味線屋・・・」
思わず漏れた声を封じ込めるように、唇が重ねられる。
触れた温みに、切なさが込み上げる。深くくちづけられ、心が震える。
そのまま、夜の帳りの中、密やかな吐息を絡め合い、墜ちていく。
届かない想いに、身を灼きながら。

早朝の光の中、勇次は手早く身仕舞いを整えると、まだ眠りの中の秀を起こさぬよう、するりと長屋を出た。
ひんやりとした朝の空気を感じながら、家路を辿る。
『勇次・・・』
濡れて勇次を呼ぶ、秀の低い声が耳に甦る。
肌を合わせるようになってからも、たとえ二人きりでも、どこか距離を置くように頑なに『三味線屋』と呼んでいる。
そんな秀が、抱かれて乱れる時だけ、そう呼ぶ。
もとより頑ななところのある秀ではあるが、情を交わす仲になっても距離を置こうとするのは、『仕事』のせいなのか。それとも、勇次の心根を信じてはいないからなのか。
愛おしいから、抱いた。その心に偽りはない。
が、戯れるように手を伸ばしたのも事実だった。
大人しく男に抱かれる男ではない。愛しいと告げて、素直に頷く男でもない。
だから、酒の酔いに任せたふりをして、戯れのように抱き寄せた。
遊びだと、思われているのだろうか。今もまだ。
自業自得、なのかもしれない。
戯れのように手を出してしまったから。愛しいと告げはしなかったから。何より、女達との浮名を流し続けたから。
真っ直ぐ過ぎる秀の目には、不実な男に映っているだろう。
勇次の口元に、苦い笑みが浮かんだ。

活動を始めた長屋の朝の気配に目を覚ました秀は、いつものように勇次が帰ってしまったことに、毎度のことながら一抹の淋しさを感じていた。
起こしてくれりゃいいのに。
一人で迎える朝は、いつもそう思う。
男と女ではないのだから、共に朝飯、という訳にもいくまい。
だから、せめて帰る前に声をかけて欲しいと思った。
それすらもしないのは、睦みあっているようでも、所詮は戯れに過ぎないからなのだろう。
そう思うと、胸が軋んだ。
抱かれるのは嫌じゃない。だが、一人で朝を迎える度、虚しさが募る。
あの腕を、温もりを欲しているのは、自分だけ。恋い焦がれているのは、自分だけ。
もう終わりにしようと思い決めた筈なのに、断ち切れない未練に、また男の腕に身を任せてしまった。
己れの愚かさに、嗤うしかなかった。

「勇さん、遊びなら程々におしよ」
意外なおりくの言葉に、勇次は思わず母親を見つめ返した。
手練れの『仕事人』として長く元締めを張って来たおりくは、これまで勇次の女遊びに口を出したことはない。
堅気のように所帯を持つことが容易くはない裏稼業の身。むしろ、しがらみを作らない勇次のやりようを、認めて来た。
そのおりくが、遊びなら程々に、と言う真意を量りかねた。
「おっかさん・・・」
「いやね、今さら野暮を言うつもりはないけどさ」
言葉を切ったおりくが、つと形のいい眉を寄せた。
「あの子はいけないよ。遊びなら手をお引き」
「あの子?」
「皆まで言わせないどくれ、勇さん」
ひたと勇次の眸を見つめる。
「いいね、勇さん」
そう言うと、おりくは立ち上がり、座敷を出て行った。
秀とのことを気づいているのか。
ふと思い当たった。他におりくが案じるような仲の相手はいない。
真っ直ぐ過ぎる秀の方をこそ、案じているのだろう。容易く遊びで割り切れる質ではない。勇次の遊びにつき合わせてやるな、と釘を刺したのだ。
おりくの言うことは、もっともであった。勇次が本気でさえなければ。
だが、こと秀に関しては、勇次は遊びで終わらせるつもりはない。あの心優しい男を、手放すつもりはなかった。

裏の仕事の折、仲間が顔を揃える時も、秀は勇次とのことを毛ほども感じさせはしない。
ただ只管に、晴らせぬ恨みを抱いて理不尽な死を迎えた者達のために、静かな怒りをその黒い眸に浮かべていた。
裏の仕事で関わりを持ち、遂には割りない仲になったにも関わらず、裏の仕事には決して情を持ち込まない。
それは、当然のことではあるが、勇次はどこかで寂しく感じていた。
そもそも。
人の命を奪う殺し屋稼業にどっぷり首まで浸かりながら、己が優しさに、ともすれば足元を掬われそうになる、秀の危うさをこそ愛おしみ、その想いのままに手に入れた情人なのだ。
それなのに、秀は決して『仕事人』として抱え込んだ痛みを、勇次に明かしはしない。
たとえ吐息の一つさえも。
秀にとって、勇次とのことは、ただ肌を合わせるだけのことに過ぎないのか。
幾度睦みあっても、心までは手に入らないのか。
勇次は初めて、相手の想いを知りたいと、心から願った。

勇次・・・
胸の中にそっと呟く。
その名を呼ぶだけで、胸の奥にぽっと暖かな灯りが灯るような気がした。と、同時に身を切るような切なさが生まれた。
小さな灯りの中、立てた膝に顎を埋めるように蹲ったまま、ぎゅっと両肩を抱きしめる。
ふと気配を感じて身体を強張らせた次の瞬間、馴染んだ気配にほっと息を緩めた。
「入るぜ」
低い声とともに、からりと障子戸を開ける男にちらりと眼をやり、視線を膝の向こうの暗がりに落とす。
「なんだよ、こんな時分に」
勇次は何も言わず、座敷に上がり込んだ。
秀の斜め前に腰を下ろすと、ふっと口元に薄い笑みを浮かべた。
「遊びは程々にしろと、おっかさんに言われたよ」
秀は一瞬きょとんと眼を瞠り、そして嗤った。
「おりくさんの言う通りだな。お前ぇは遊びが過ぎるんだよ」
「そうかもしれねぇな」
勇次は苦笑を浮かべた。だが、すぐに笑みを消して、ひたと秀を見つめた。
「だから、お前ぇに会いに来た」
秀は、むっと顔を顰めた。
「遊び納めなら、他当たれよ」
ぷいと眼を逸らす。
「遊び納めは、もう済ませたよ」
言葉の意味を量りかねて、秀はつい勇次に眼を戻した。
「ここから先は、本気の色恋だ」
そう言うと、勇次は自分の膝を抱えていた秀の腕を掴んだ。
「・・・何言ってるのか、わからねぇ」
「わからせてやるよ」
言い様、ぐいと掴んだ腕を引いた。力任せに秀の身体を胸に抱き込む。
「っ何しやがる!」
抗う身体を押さえ込み、柔らかな髪を掴み仰のかせる。
「言ったろ、お前ぇに惚れてるって」
「嘘だ」
呟く唇に唇を重ねた。秀が、首を振り逃れる。
「なぶるのもたいがいにしろよ」
ふと勇次の白い顔が曇った。
「お前ぇの方が遊びだったのかい?」
「え」
訝しげに勇次を見上げる秀に、重ねて問う。
「戯れで、俺に抱かれたのかい」
かっと秀の頬に血がのぼった。
「戯れで抱いたのは、てめぇだろ!」
「・・・俺は、端から本気だよ」
勇次の言葉に、秀の眸が驚きに大きく見開かれる。
「そんなの、嘘だ」
「嘘じゃねえ」
柔らかな声が、秀の上に落ちてくる。
「女を抱くのと、お前ぇを抱くのは、別ものだ。だが、お前ぇが嫌だってなら、もう女は抱かねぇ」
「そんなこと、お前ぇに出来る訳がねぇ」
声が掠れる。
「そういうお前ぇは、どうなんだ」
「どういう意味だ」
「戯れで、俺と寝たのかい?」
先と同じ問いを投げかける。
「・・・戯れで男に抱かれる趣味はねえ」
そう言うと、秀は口を引き結び、勇次から顔を背けた。
「もうちっと可愛げのある言い方ができないもんかねぇ」
艶のある声に笑いを含んで囁くと、勇次は秀の顎を摘まんだ。背けられた顔を、己れに向かせる。
「まあ、そういうところに惚れちまったのかもな」
くつくつと咽喉で笑うと、ふっくりとした唇にくちづける。逃れられないように、深く深くくちづけた。
そのまま、すっきりとした首筋に唇を滑らせる。
秀の唇から、熱い吐息が漏れた。
「お前ぇが欲しい」
灼けた肌に唇を這わせたまま、囁く。
「何もかもすべて」
「今更、何言いやがる。散々嬲っておいて」
濡れた声が、毒づいた。
「・・・お前ぇの心が欲しいんだよ」
勇次の声が、切なく濡れた。
「お前ぇの身も心も、俺だけのものにしてぇんだよ」
かき口説く勇次の言葉に、胸が張り裂けそうになる。じんわりと涙が滲んだ。
「お前ぇの心は」
掠れた声で問いかける。
「お前ぇの心を、俺にくれんのか?」
縋りつくように、勇次の背に腕を廻した。
「ああ、やるよ。俺の心は端からお前ぇのもんだ」
勇次の柔らかな甘い声が、秀の耳をくすぐった。
「勇次・・・お前ぇが」
こくりと唾を飲み込む。
「好きだ」
勇次は、胸の奥底から熱い塊が込み上げてくる気がした。
今までどんな女と情を交わしても、どんな女から「惚れた」と言われても感じることのなかった喜びが身体中に染み渡る。
衝きあげてくる愛おしさのままに、秀の身体をかき抱いた。しなやかな身体の隅々まで、唇を、指を這わせる。勇次の指に唇に応えるように、秀の身体を熱が満たしていく。

障子戸から射し込む朝の光に、ゆるりとした目覚めが訪れる。
腕の中の秀を起こさぬようにそっと身を起こすと、秀の指がきゅっと勇次の乱れた襟を握りしめた。
「帰ぇらねえでくれよ・・・」
起こしてしまったかと顔を覗き込むと、それは眠ったままの秀が零した呟きだった。
「秀・・・」
「黙って帰ぇるなよ」
勇次は、そっと秀の髪を撫でると、その耳元に囁いた。
「帰ぇらねえよ」
その囁きが届いたのか、秀はふんわりと嬉しそうな笑みを浮かべて、勇次の胸に鼻先を埋めた。そのまま規則正しい寝息を立てる。
いつもこう素直だといいんだけどな。
勇次は、小さく苦笑を浮かべた。しなやかに眠る身体を抱き直して、床の上に身を横たえた。



2013.06.28



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