Stand by me


ただ、傍にいたかった・・・誰よりも、近く

〈1〉indication

神崎が初めて狩野に出会ったのは、大学1年の、梅雨もようやく明けようかという初夏の頃だった。神崎は、一般教養の数学の参考書を探して、図書館の数学書のコーナーでぎっしりと並んだ背表紙の中から目当てのタイトルを探すのに夢中になっていた。
いきなり、どすんと背中同士がぶつかって、相手は「あいて!」といかにも不機嫌そうな声を上げて振り向いた。振り向いた顔は、大学に入りたてのまだ幼さの残る顔の口元に、ようやく一人前の髭を蓄えかけた、どこか男臭さを感じさせるふてぶてしい顔だった。
「気をつけろよ」
相手は、眉間にしわを寄せて、不機嫌そうに呟いた。
「すまない」
神崎は、高校に入りたてです、と言っても通りそうな線の細い顔の両眉を、困ったように下げて、詫びを口にした。
「本を探すのに夢中になってて」
本当にすまなそうに詫びる神崎の顔をしばらく眺めていた相手が、ばつが悪そうに頭を掻いた。
「いや、俺も夢中になってたから」
「じゃあ、お互い様ってことで」
ようやく少しだけ笑った神崎に、相手も笑い返してきた。その肩越しに、神崎が探していた本のタイトルが見えた。
「あ、あった!」
思わず声を上げた神崎に、相手も後ろの書棚を振り向いた。
「あ、これだ」
相手が手を伸ばした参考書は、神崎がようやく見つけた参考書だった。
「あ・・・」
神崎の口から漏れた声に、相手が怪訝そうに振り向いた。
「おまえも、これ探してたのか?」
神崎は、一瞬迷って、かすかにこくりと頷いた。
「あー、参ったなあ」
手に取った参考書の表紙を眺めながら、相手は困ったような声を上げた。
「いいよ、俺は今度で」
笑ってその場を離れようとした神崎の目の端に、数冊離れたところに同じタイトルがあるのが見えた。
「あった、あった」
くすりと笑いながら、神崎はその本を手に取り、タイトルを相手に見せた。
「もう一冊あったのか。―――助かった」
相手は、ちょっとびっくりしたような顔をして、それから屈託なく笑った。 その男らしい屈託のない笑顔に、神崎は好感を持った。
「俺は、神崎。神崎徹。電算工学科の一年だ」
神崎が名乗ると、相手はまたびっくりしたように目を見開いた。
「俺も電算工学科だよ。狩野ってんだ、よろしくな」
「うん、よろしく」
そう神崎が笑って応えると、「じゃあ、またな」と狩野は手にした参考書をひょいとかざしてから、閲覧室の方へ歩いていった。
その背中を書架の間から見送りながら、神崎は、何故か胸の奥がほんのりと温かくなるのを感じた。
「じゃあ、また」
書架の向こうに消えた狩野の背に、神崎は小さく呟いた。それが全ての始まりだとは気付かずに。

「どっか、空いてねぇか?」
生協の大食堂で、狩野は友人たちと空席を探してきょろきょろしていた。
「あ」
ごった返す大食堂の中で、ふと一点に目が留まった。つい先日、図書館でぶつかった男の細い顔を見つけたのだ。
『神崎、って言ったっけな』
ふと、また話してみたくなった。
「悪ぃ、俺、ちょっとダチ見つけちゃった」
そう連れの学生に声をかけると、狩野は、狭い席の間をトレーを掲げて、すり抜けていった。
神崎の元に辿り着くと、丁度、神崎の向かいの席が一つだけ空いていた。
「ここ、いいかい?」
声をかけると、一人でどこか所在無げに黙々と食べていた神崎が顔を上げた。狩野の顔を見て、一瞬きょとんとしたあと、花が咲くようにふわりと笑った。
「やあ」
嬉しげに笑った神崎の顔を見て、狩野の胸がとくりと高鳴った。耳が熱くなるような気がして、それを誤魔化すようにわざと大きな声を出した。
「なんだ、おまえ、いつも一人で食べてんのか?」
「まさか」
神崎は、その細い面にちょっと困ったような笑みを浮かべた。
「選択の関係でさ、火曜日は独りになっちゃうんだ」
「選択?」
どっかりと神崎の前に座を占めた狩野は、もう一口目を頬張りながら、上目遣いに神崎を見た。
「うちのクラスのやつらはさ、政経取ってるヤツいなくって。みんな午後から重役出勤だよ」
『困ったもんだ』とでも言うように、軽く眉をしかめて見せた神崎が、すぐにくすりと笑みを浮かべた。
「でも、おかげで君と会えたから、いいか」
他意のない神崎の言葉に、狩野の胸はまたどきりと高鳴った。
『また、こいつに会いたい』
はっきりとした形にはならない、ぼんやりとした思いが、思わず狩野の口をついて出ていた。
「じゃあ、こうしようぜ。火曜の昼は俺と一緒に食う」
言ってしまってから、妙なことを口走ったような気がして、心臓がばくばくとした。
ちょっと驚いたように目を瞠った神崎が、狩野を窺うように見た。
「でも、いいのかい?君の友達、一緒だったんだろ?」
「いいんだよ」
狩野は、器用にウインクをして見せた。
「あいつらとは、イヤでもいつもつるんでるんだからさ」
神崎が、ふふっと嬉しそうに笑った。
「じゃあ、来週の12時に、この食堂の前で」
他愛のない約束なのに、秘密の約束をしたようで、狩野の口元が我知らず緩んだ。

〈2〉innocent

「狩野」
不意に後ろから、聞きなれた甘いテノールで呼びかけられて、狩野は慌てて振り向いた。
「神崎」
「君も取ってたんだな、法学」
目の前に屈託なく笑う神崎の、狩野よりほんの少し背の低い小さな顔があった。
「ああ。今までなんで会わなかったんだろうな」
そう言って、狩野はドキドキする胸を誤魔化すように、ぐるりと大講堂を見回した。軽く300人は入る大教室だ。
「この大人数じゃ、ムリもないよ」
くすくすと笑いながら、神崎が狩野の隣に腰を下ろす。
「あ、ここ、誰か来るんだった?」
ふと気付いたように訊ねてくる神崎に、「いや」と首を横に振る。本当は、いつも同じドイツ語クラスの仲間と群れているのだが、つい言いそびれた。
「そう。もうすぐ、うちのクラスの連中も来ると思うけど、一緒でもいいかい?」
「ああ]
他の連中もやってくると聞いて、狩野は胸の片隅で、少しがっかりした。
「よう、狩野」
反対側から、聴き馴染んだだみ声がかかった。いつもつるんでいるドイツ語クラスの仲間たちだった。同じクラスの悪友どもは、狩野の隣に座った細身の神崎を見て、ちょっと不思議そうな顔をした。
「狩野、知り合いか?」
何となく、悪友どもに神崎を紹介したくはなかったが、仕方なかった。
「中国語クラスの神崎だよ」
「初めまして」
神崎が柔らかい笑みを浮かべて会釈をしてみせる。と、じーっと黙って見ていた田辺という狩野の悪友が、鼻眼鏡をずりあげながら神崎を覗き込んだ。
「もしかして、これが噂の“火曜日の君”か?」
狩野の悪友どもの間から「ええー?」という声が上がった。
「オレは、てっきり女だと思ってたけどなあ」
ちょっと小太りの島野という男が、狩野を肘でつついた。
「だから、そんなんじゃねぇって言ってただろ!」
「なんだよ、“火曜日の君”って?」
神崎が、不思議そうに狩野の目を覗き込んでくる。狩野が口を開く前に、田辺が答えた。
「狩野が毎週火曜の昼休み、俺たちと別れていそいそと生協へ行くからさ、これは彼女でも出来たんじゃないか、って噂してたんだ」
ちょっとびっくりしたような目をした神崎が、くすくすと楽しそうに笑った。
「これは、とんだ“火曜日の君”だったね」
「おまえまでなんだよ」
狩野は、熱くなる耳を隠すように、むくれて見せた。

大教室でお互いのクラスメートとも親しくなる中で、狩野と神崎の距離は急速に縮まって行った。火曜日の昼食だけだった逢瀬が、法学の大教室に広がり、そのうち、互いのクラスメートと過ごす時間より、二人で過ごす時間の方が多くなっていった。
同じ電算工学科でプログラマーを目指していた二人の話は、もっぱら数学とプログラムの話だった。
「あそこの行列は、ここを、こうして解いた方がいいんじゃないか?」
「けど、そうすると、二度手間にならないかい?むしろ、こっちを先に解いて・・・」
「んー、けど、それよりはさ・・・」
興味のない人間からみれば無味乾燥な数学の問題の解き方で、二人は何時間でも話し合えた。
そのうちすぐに、プログラムの基礎の本と首っ引きで、『さいころを一つ振る』といったような、簡単なプログラムを書き始めた。才気に溢れていた二人は、競うように複雑なプログラムを書き上げては、論評しあった。
「ここで、このループが止まるんだよ」
「それは、こっちのコマンドを使った方がいいんじゃねぇか?」
「ああ、そうか。じゃあ、ここをこうして・・・」
互いに一人で書き上げたプログラムを持ち寄っては、二人で意見を出し合い、より高度なものに仕上げていった。
二人で過ごす時間はどんどん濃密になり、自他共に認める“親友”となっていた。

「なあ、神崎」
いつものようにプログラム談義を終えて、生協の缶コーヒーでコーヒーブレイクを過ごしていたとき、狩野がふと口を開いた。
「おまえ、どのゼミに進む?」
不意打ちの問いかけに、神崎は、少し目を伏せた。ドキドキと動悸が激しくなる。
『狩野と同じゼミに進みたい』
恋に溺れた女のような科白が喉元まで出かかった。
「まだ、はっきり決めてないけど、竹内ゼミにしようかと思ってる」
神崎の動悸が一層激しくなった。具体的なゼミを挙げたのは、狩野が、優秀なプログラマーを輩出している竹内ゼミを狙っているらしい、という予測に基づいた、神崎にとって一種の賭けだった。
「そうか」
狩野が、嬉しそうに破顔一笑した。
「俺も竹内ゼミにしようと思ってたんだ」
神崎は、そっと息をついた。
『よかった。これからも狩野と一緒にいられる』
「絶対、竹内ゼミに受かろうな!」
出逢った頃よりぐっと男らしさを増した狩野が、笑いながら、がしっと神崎の肩を抱き寄せた。
どくん!と神崎の心臓が、喉から飛び出しそうに跳ねた。
「でもなあ、竹内ゼミは倍率高いらしいからなあ・・・」
狩野は、自信無げに笑う神崎の肩に回した腕に力を込めた。
「俺とおまえなら絶対大丈夫だって」
「おまえは自信家だなあ」
確信に満ちたような狩野の科白に、神崎は、狩野の笑顔を眩しそうに見上げた。

結局、無事に希望のゼミに入ることの出来た二人は、ますます親密度を増し、周囲からも“竹内ゼミのお神酒徳利”と呼ばれるまでになった。
二人で研鑽し合いながら書き上げるプログラムやレポートは、教授を唸らせるほどのものとなり、電算工学科でもっとも優秀だと言われ続けてきた竹内ゼミの中でも、歴代一位二位を争うほどだと言われるようになっていた。
だが、その頃から、神崎の心のうちに微妙な変化が生まれた。
『狩野には敵わない』
神崎自身、理論にもプログラミングにも自信はあった。だが、狩野と二人で競い合えば競い合うほど、狩野のアイデアの斬新さに舌を巻いた。そして、神崎は、その才能に溺れこんでいった。
神崎は、ふと気付けば狩野の真似をしていた。覚えたばかりの煙草を吸う仕草、ライターに火をつける時の癖。コーヒーカップを持つときの指の具合。考え込むときに、額を押さえる癖―――。
課題のプログラムを考えるときも、どこかで行き詰るたびに『狩野ならどう考えるだろう』『狩野ならどんなプログラムを書くんだろう』―――無意識のうちに狩野の考えをなぞるようにプログラムを書いていた。いつしか、出来上がるプログラムは、狩野の書くプログラムのコピーのようになっていた。
神崎は、書きあがったプログラムの中に狩野の癖にそっくりな部分を幾つも見つけたとき、頬が熱くなるような思いがした。それは、神崎にとって、狩野へのラブレターにも等しかった。
『狩野、狩野、狩野―――』
口髭を蓄えた男臭い狩野の顔を思い浮かべるたび、訳もなく心の奥底がきりきりと締め付けられるように痛んだ。

〈3〉palpitant

「卒業論文万歳!」
酔った狩野がだみ声で叫んだ。
「ああ、ホントによく間に合ったよ」
神崎は、酒に赤く染まった顔でふーっと深い溜息をついた。
締め切りぎりぎりまで、何度も何度も書き直した論文は、まだ何か足りないような気もしたが、結局のところ、どこまでやってもキリなどないのだ、と割り切ることにした。
卒業論文も最後まで二人で競い合って書いたのだからと、狩野の提案で、狩野の部屋で二人だけの祝杯を挙げることにしたのだ。
「さあ、全部忘れて飲むぞー!!」
狩野は、豪快にコップ酒を飲み干して笑った。
「神崎、おまえも飲め飲め!」
上機嫌の狩野は、神崎の手の内の、空になりきらないコップになみなみと日本酒を注いでくる。
「勘弁してくれよー。俺はおまえほど強くないんだからさあ・・・」
眉毛をへの字に下げた神崎の顔を見て、狩野は声を立てて笑った。
「今日は無礼講!とことん飲ませるぞ」
互いの手の内のコップは空になる暇もなく、酒が注ぎ込まれ、卒業論文を提出した解放感に二人は、他愛のない話で笑いあいながら、ぐいぐいと酒を飲み干していった。


「ああ、もうダメだ」
日付が変わって小一時間も経った頃、とろんと眠たげな目をした神崎が、とうとうコップを置いて畳の上に寝転んだ。
「オイ、神崎。まだつぶれるには早いぞ」
すっかり出来上がった狩野が、伸びてしまった神崎の肩を足で揺すった。
「んー、・・・勘弁してくれよー」
肩を揺すられて、神崎は畳の上でころんと寝返りを打った。うっすらと目を開けたが、すぐに閉ざされてしまう。目許がほんのりと赤く染まり、思いのほか長い睫毛が頬にくっきりと影を落として、ぞくりとするほど色っぽくなった。
すうすうと無防備に寝息を立てる神崎の顔を覗き込み、狩野は、腰の辺りがずしりと重くなるのを感じた。
酒に濡れた神崎の薄い唇が、うっすらと開かれ、真っ白な歯の隙間から、薄紅色の舌がちろりと覗いていた。
「神崎―――」
狩野は、魅入られたように神崎の寝顔を見つめ、引き寄せられるようにその唇に唇を重ねた。神崎の唇は、思いの外柔らかく、酒に火照って熱かった。
「ん」
狩野が、身体の奥底から突き上げてくる衝動に、思わず、神崎の細い身体にのしかかろうとしたとき、神崎の唇から小さな声が漏れた。
ぎくりと身をすくめた狩野は、酒に酔った頭をぶるぶると振るった。
『俺は―――俺は、何を・・・』
コップに残っていた酒をぐっと呷ると、神崎に背を向けるように畳の上に転がって目をぎゅっと閉じた。
『ダメだ、絶対にダメだ』
無防備な神崎の信頼を裏切ることは狩野には出来なかった。体の奥の熱を冷ますように、自分の肩を抱き締めて、狩野はゆっくりと眠りに落ちていった。

明け方、神崎がぼんやりと目を覚ますと、目の前に狩野の広い背中が見えた。とくん、と一つ胸が跳ねた。
『狩野』
そっと身を起こし、向こう側を向いている狩野の寝顔を覗き込む。
速くなる鼓動が、明け方の静かな部屋に響くようで、ますます鼓動が速くなる気がした。
出会ってからの4年間で男臭さを増した狩野の、口髭を蓄えた口元から規則正しい寝息が漏れていた。
神崎は、速まる鼓動を抑えるようにそっと深呼吸をして、おずおずと指を伸ばした。男らしい狩野の唇を震える指先でなぞった。弾力のある唇に触れた指先から電流が走るような気がして、神崎は、慌てて指を引いた。熱を帯びたような指をゆっくりと自分の口元に運ぶ。震える吐息を吐きながら、ぎゅっと目を瞑って指先にそっと唇をつけた。狩野が好んで吸うきつい煙草の匂いが鼻先を掠めた気がした。
『狩野―――俺は・・・』
決して触れてはならない禁忌に触れてしまった気がした。
神崎は、泣きたいほどの切なさを抱いて、狩野に背を向けるように、畳の上に横たわり目を閉じた。

〈4〉nasty

4月。狩野と神崎は、業界大手のセントラル電工に開発部員として入社した。“竹内ゼミのお神酒徳利”は、社会に出ても変わることなく続いていくかに思われた。
しかし、斬新なアイデアでめきめきと頭角を現していく狩野に対し、いつしか狩野のコピーしか作れなくなっていた神崎は、社内での評価を落とし始めていた。
数年経つ頃には、狩野は開発室長にまで上り詰め、一方の神崎は営業部に配置転換されてしまっていた。それでも、狩野と神崎の友情に変わりはない様に見えた。部署と立場は変わってしまっても、相変わらず、よくつるんで飲んでいた。

そんな頃、総務課に美しい新入社員が入り、社内の男性社員の評判に上った。
森村洋子。
営業部に配置転換されていた神崎は、彼女と何かと仕事上で関わりを持つようになった。自然と二人の仲は近づき、神崎の引き合わせで、やがて狩野も洋子とプライベートでも会うようになった。そして、三人の仲は、緩やかに奇妙な三角関係を描き始めた。
始めのうちは、神崎と洋子の方がやはり親しかった。その二人を前にして、狩野は、密かに焦りを感じていた。
神崎が洋子に惹かれ始めている。親友の恋ならば祝福しなければならない。だが、狩野にはそうすることが出来なかった。神崎を誰にも奪われたくなかった。だが、神崎に想いを告げて軽蔑され、永遠に失うことは何より恐ろしかった。それくらいならばいっそ、神崎から洋子を奪ってしまおうと思った。
一方、繊細な優男の神崎に比べ、男臭いところが在りながら、そのくせどこまでも優しい狩野に洋子が惹かれ始めていることは、神崎には手に取るように分かっていた。狩野が、洋子を射止めようとしていることも、痛いほどに分かっていた。
神崎は、狩野に仕事で後れを取り、肩を並べることが出来なくなった上、洋子の出現で、狩野の一番近くにいる、という立場さえ失おうとしていた。
せめて“親友”でいるためには、この三角関係から身を引き、洋子に失恋した振りをして、狩野と洋子の門出を祝福するしかなかった。
「狩野、洋子さん、おめでとう」
腹の奥底で慟哭しながら、二人の門出を祝福し、神崎は、かろうじて狩野の親友としての立場をその手の内に残した。

狩野は、洋子を妻として愛した。神崎を奪われまいとして結婚した以上、何の関わりもなかったはずの女をそれ以上不幸にすることは出来なかった。穏やかな結婚生活の中で、娘も生まれ、理沙と名づけた。
狩野の胸の奥底に封印された神崎への想いとは裏腹に、洋子との家庭生活はこの上なく穏やかだった。いつしか、洋子との家庭が狩野の安らぎになっていった。そのことが、神崎を追い詰めてしまうとは、狩野は夢にも思わなかった。

一人取り残されてしまった神崎の胸に、ぽっかりと空虚な穴が開いた。“お神酒徳利”とまで言われた狩野との間に、洋子と娘という異物が侵入し、夢だったプログラマーとしての道も閉ざされて久しい。
そんな頃だった。営業不振の取引店から、裏ROMの手配を打診されたのは。
もちろん違法行為であることは分かりきっていた。だが、エースプログラマーである狩野の癖を知り尽くした自分になら、“狩野が作ったかのような裏ROM”を作ることは容易いことだと思えた。
プログラマーとしての仕事を失い、誰よりも愛した狩野を失い、あとは『かばん屋』として裏ROMを流し、贅を尽くした生活でもするより、心の穴を埋める術を神崎は知らなかった。
神崎は、《南条勇二》という名前で、密かに『かばん屋』を始めた。営業という仕事上、『かばん屋』を必要とする斜陽店舗を見つけることは容易かった。
一流企業の社員としても贅沢に過ぎるマンションに入居し、贅を尽くしたものを味わいつくした。
それでも、神崎の心に開いた空虚な穴は埋められることはなかった。

〈5〉incriminate

急転直下、警視庁公安部の元エリート葛岡がセントラル電工の社長として天下ってきた。 抜け目のないキャリアである葛岡は、社内の裏も表も調べつくしていた。そして、密かに『かばん屋』をしている神崎に目をつけた。
「神崎さん、社長がお呼びです」
そこそこの営業成績しか上げていない、一営業部員を就任直後の社長が呼び出すなど異例のことだった。神崎は、何かどす黒い不吉な予感を抱いて、社長室のドアを叩いた。
「神崎君。まあ、掛けたまえ」
広いフロアの窓際の大きなデスクの向こうから、葛岡は鷹揚に言った。
「失礼します」
一礼して、応接セットの下座にかける。上座には、いかつい顔をした男が既に威圧感を持って座っていた。
「彼は、弓削君といってね。私の元部下で、今は西新宿署の防犯課長だ」
弓削と紹介された男は尊大に神崎をねめつけた。
「君は、個人的に『かばん屋』をしているそうだね」
弓削の野太い声が決め付けるように言った。
内心、ぎくりとした神崎だったが、あっさり認めてしまうくらいならば、初めからこんな危ない橋を渡っていない。
「まあまあ、弓削君。そんな切り口上じゃ、神崎君も返答に困るだろう」
いかにも大物然として、葛岡が鷹揚に口を開いた。
「何も咎め立てしようというんじゃない。どうかね、私達の仲間に入らんかね?」
葛岡は、神崎が予想もしなかった科白を投げつけてきた。
「昔開発室にいた君ならば、人選に間違いはないだろう。“スケープゴート”を一人選んで欲しい」
「スケープゴート?」
葛岡の言葉の真意が分からずに目を眇める神崎に、葛岡はまた鷹揚に笑って見せた。
「そうだ。われわれの掌の上で裏ROMを設置して回って、違法行為をする店を作り出してもらう。その店を即座に弓削君が摘発する。別会社から融資をさせてCR機を導入させ、われわれの傘下に収めていく。こうして、17兆円産業のパチンコ業界をわたしが牛耳ることになる」
くくく、と葛岡が含み笑いをした。
「君には選択肢が3つある。一つはスケープゴートを選ぶこと。一つは君自身がスケープゴートになること。そしてもう一つは、『かばん屋』として、この場で手錠を掛けられること」
デスクの向こうの葛岡がゆっくりと立ち上がり、神崎の後ろに回りこんだ。神崎の薄い肩を掴み、いやらしく撫で回した。
「君には是非、いいスケープゴートを選び出してもらいたいね」
神崎は、蛇に睨まれた蛙も同然だった。冷たい汗が脇を伝い落ちていった。
短い時間の中で、神崎は頭をフル回転させた。
そして、一つの昏い答えを見出した。 狩野をスケープゴートに祭り上げること。仕事も家庭も奪い去り、神崎の他には頼るものを失わせること。
そうすれば、狩野はまた神崎の元に戻ってくる。たとえ手酷い裏切りの結果だとしても。狩野の傍らにいる限り、嘘を吐き通さなくてはならなくても。
「開発室長の狩野がいいでしょう」
昏い答えが神崎の唇から紡ぎ出された。
「彼ならば、必ずわたしを頼ってきます。そうすれば、われわれの掌の上で『かばん屋』として動き回らせることは簡単です」

〈6〉scapegoats

狩野に焦がれるあまり、狩野のプログラムのコピーしか書けなくなっていた神崎にとって、狩野が作ったとしか見えない裏ROMを偽造するのは簡単なことだった。
手始めは、狩野が父親とも慕っている若林の《AKANE》だった。誰が見ても狩野が作ったとしか思えない裏ROMを夜陰に乗じて設置して回る。異常に気付いた《AKANE》と狩野を摘発する。狩野の逃亡は計算のうちだったが、弓削の足を刺して不自由にしてしまったのは計算外だった。
青天の霹靂のように、裏ROMの製作者として追われる身となった狩野は、夜の新宿を逃げ回り、最後に神崎に助けを求めて電話をかけてきた。
「もう、俺はおしまいだよ・・・女房に、俺は大丈夫だからって伝えてくれ・・・」
自信に満ち溢れていた狩野が、震える声ですすり泣くように神崎に救いを求めてきた。
「狩野、狩野、しっかりしろ。今どこにいるんだ」
最後の味方の振りを演じながら、神崎は昏い愉悦を感じていた。 もう狩野には頼るべきものは自分以外にない。狩野は自分だけのものだ。

「大丈夫か、狩野」
廃ビルに潜んでいる狩野の下へ、神崎は駆けつけた。
「神崎、俺は女房、子供のところへ帰りたい。こんなことに巻き込んですまないが、助けてくれ」
裸足で、髪を振り乱し、泥に汚れた哀れな中年男がそこにいた。神崎以外に頼るもののない、寄る辺ない男。
『もう、誰にも渡さない』
昏い決意を胸に秘め、神崎は努めて明るい声を出した。
「狩野、これを見てくれ。おまえのROMにそっくりの裏ROMだ。名古屋の店で見つけたんだ」
「こんなこと、いったい誰が・・・」
「その名古屋の店長から聞いたんだが」
そう言って神崎は一枚の名刺を狩野に差し出した。名刺には《南条勇二》としか印刷されていなかった。
「南条勇二・・・こいつが―――!」
狩野は、激情のあまり、名刺を握り潰した。
「こいつを追うんだ、狩野。こいつさえ捕まえればおまえの無実が証明できる」
『《南条》を追え、狩野。この俺を追って来い―――』
神崎は、狩野を二重に絡め取った。最後の味方である親友、神崎。己を陥れた敵である《南条》。狩野の世界には、この二人だけが残された。そして、《南条》は、神崎の“影”―――。
もう神崎と狩野の間には、何者も残ってはいなかった。 追う者と追われる者―――何よりも強い絆で、狩野と神崎は今再び結びつけられたのだった。

「君もなかなかしたたかだねぇ」
葛岡が舌なめずりをするような声で囁いた。神崎は、全身が粟立つような思いを耐えた。
「大切な親友をスケープゴートにしたばかりか、その手で直接陥れるとはねぇ」
くくく、と葛岡が含み笑いをした。
「恋というのは恐ろしいものだね、《南条君》」
葛岡の言葉に、神崎は目を瞠り、身体を強張らせた。
「隠しても無駄だよ、《南条君》。君たちは“お神酒徳利”とまで言われた仲だそうじゃないか。君は、狩野の唯一の味方になり、追うべき敵さえ演じて見せる―――それほどまでに狩野を独占したいのかい?」
昏い心底を見透かされて、神崎はわなわなと震えた。
「このことを狩野が知ったらどうなるだろうねぇ」
それは、神崎が一番考えたくないことだった。いつまでもこのまま、唯一の味方として狩野の傍らにあり続け、そのために二人で追うべき幻《南条》を生かし続ける。どんな手段を用いても、この絆は誰にも断ち切らせるつもりはなかった。
葛岡の野太い指が、神崎の首筋をするりと撫でた。
「君は、綺麗だねぇ」
くくく、と葛岡がまた含み笑いを零した。
「どうだね、私の物にならんかね?どうせ一つ穴の狢・・・君の裏切りを狩野に知られたくはないだろう?」
唇を噛んで屈辱に耐える神崎の横顔を舐めるように見つめながら、葛岡は浅ましい笑いを浮かべた。
いやらしく蠢く指が、強張った神崎の襟元をくつろげていく。
「狩野よりも、ずっと楽しませてあげるよ」
粘つく声が、神崎の耳を犯した。ねっとりとした舌が、耳朶をゆっくりと舐めていく。顎のラインを辿った分厚い唇が、神崎の薄い唇を塞いだ。固い蕾のように閉ざされた唇を強引に割って、分厚い舌が神崎の口腔に侵入する。
「ん・・・く」
初めて施される濃厚なくちづけに、神崎が苦しげに呻いた。
濡れた音を立てて唇を離した葛岡が楽しげに笑った。
「おやおや、まるで生娘のようだね」
葛岡の言葉に、神崎の頬がさっと赤く染まった。
「ほほう、これはこれは。君たちはプラトニックだったんだね」
狩野との関係を冒涜するかのような葛岡の言葉に、神崎は思わず両耳を塞いだ。その細い両手首を掴んで耳から引き剥がすと、葛岡は、毒のような囁きを流し込んだ。
「狩野に知られたくなければ、このまま私の物になりたまえ」
葛岡は、神崎の答えを聞く気などなく、分厚い唇で唇となく頬となく首筋となく、あらゆる場所を蹂躙した。分厚い舌が、くつろげた襟元から忍び込み、滑らかな胸を舐め尽す。ひっそりと息づく赤い果実を押しつぶすように捏ね回し、屹立したところに歯を立てる。
「ひっ」
初めて与えられる刺激に、神崎の喉が鳴った。
「これは仕込み甲斐がありそうだ」
葛岡は舌なめずりをして、本格的に神崎を責め立て始めた。野太い指が、神崎の細い身体を隈なく暴いていく。与えられる刺激の強さに、神崎はがくがくと身体を震わせた。屈辱のあまり、見開いた目尻から透明な滴が糸を引いて零れ落ちた。
『狩野、狩野、狩野―――!』
これは罰なのか?誰よりも信頼を寄せた親友であった狩野に、邪な想いを寄せた天罰か。狩野を己一人のものにしたいばかりに陥れた報いなのか。
葛岡の手管に、啜り泣き乱れながら、神崎の心は激しく狩野を求め続けた。

〈7〉fugitive

「助けてください」
留守番電話の向こうから聞こえる《AKANE》の店長、大沢の声を聞きながら、パトカーに跳ねられた打撲に痛む身体をソファに横たえ、神崎はぼんやりと天井を見上げていた。
あれから、何度葛岡の慰み物になっただろうか。狩野を盾に取られては、神崎に抗う術はなかった。狩野をスケープゴートにしたつもりが、神崎自身も葛岡のスケープゴートに仕立て上げられていたとは、笑うに笑えない話だった。
ぼんやりと、煙草を引き寄せ、口に咥える。まだ大沢の泣き言のような留守電は続いていた。
「もう狩野さんしかいないんです。大学からの親友の神崎さんなら連絡先をご存知でしょう?おねがいします」
『親友?』
昏い笑いがこみ上げてきて、打撲した傷が痛んだ。
『親友なんてお笑い種だ。俺が、俺自身が狩野から全てを奪い去ったって言うのに―――』
狩野を新宿に戻したくはなかった。新宿に戻れば、全てが露見してしまうからだ。
だが、葛岡の判断は違っていた。もう狩野は用済みだと言い、神崎が密かに作っておいた裏ROMを勝手に使ってしまった。
ここまできては、狩野を新宿に戻さざるを得なかった。

「《AKANE》の大沢が、助けて欲しがってるんだ」
久しぶりに会った狩野に告げた。狩野が新宿に戻るのを渋るのは分かっていた。洋子に会いたくないのだ。そう仕向けたのも、神崎自身だ。しかし、神崎自身も望んでいないことではあっても、狩野を新宿に戻さなくてはならない。それが葛岡の方針だ。
「奥さん・・・いや、洋子さんとのことは決着がついているんだろう?それより、今ここでヤツを見失ったら、次、いつ南条に出くわすか分からんぞ」
《南条》という言葉は、狩野には何より効いた。神崎自身が作り上げた幻。神崎自身の影。その《南条》への執着こそが、神崎の望んだことであったのに、今はもうそれすら虚しい。
『狩野、おまえはいったい何を追っているんだ?』
《南条》への執念を燃やす狩野の横顔を見つめて、神崎は哀しく目を伏せた。

深夜、マンションのチャイムが鳴ってドアを開けると、顔を腫らした狩野が立っていた。
「狩野、どうしたんだ、その顔。とにかく冷やそう、中へ入れよ」
滅多にない狩野の来訪に、神崎は今の立場を忘れて、心を浮き立たせた。甲斐甲斐しく氷を取り出して、傷の手当てをしようとする。
狩野は、そんな神崎から視線を逸らすようにして、ぼそりと呟いた。
「おまえ、洋子が離婚を望んでいると言ったけど、あっちにも同じこと言ったよね」
「・・・」
突然の狩野の言葉に返す言葉がなかった。
「おまえ、洋子のことが好きだったよね」
狩野は、あくまで神崎を見ようとしなかった。
神崎は一つ息を吸い込むと口を開いた。
「おまえの言うとおりだ。俺は洋子さんが好きだった。彼女を不幸にしたくなかった。親友のおまえの一番大切な人を不幸にしたくなかったんだ」
『嘘だ、嘘だ、大嘘だ』
そう喚き出したかった。
『俺が好きだったのはおまえだ、狩野。誰よりも、誰よりも大切だったのはおまえなんだ』
「なら、いいんだ」
狩野は、神崎を責めることなく立ち去ろうとして、ふと歩みを止めた。
「おまえも聞きたいことがあるって言ったよね」
「・・・たいしたことじゃないんだ。《AKANE》に仕掛けたROM256じゃなかったよね。どういう仕掛けなんだ?」
「二層ROMってヤツだよ。プログラムが二段重ねになっていて、チップテープが貼ってあるから、ROMライターじゃ検出できない」
「そうか、ありがとう」
頭をガツンと殴られた気がした。やはり、狩野と自分とでは格が違うのだ。神崎にはそんなアイデアは浮かばないし、眼の前で見せ付けられてもその仕組みを見抜くことが出来なかった。決定的な敗北感だった。
「じゃあ」
狩野は静かに出て行った。

『神崎、おまえなのか?』
洋子との離婚の経緯を西新宿署の刑事、山辺から知らされて、狩野の胸に小さな疑いの火が点った。だが、信じたくなかった。誰よりも、誰よりも、妻として愛した洋子よりも愛した神崎が、自分を陥れたなどとは信じたくなかった。何故、神崎に陥れられなければならないのか、どうしても分からなかった。
だが、それは哀しい確信だった。

「この裏ROMを使えば、CR機の無制限連荘ができますよ」
狩野は、乗っ取りを続けてのし上がってきた大村薫のGOLDに裏ROMを売り込みに行った。
「しかし、今、社長は留守でして・・・」
「裏ROMの取引くらい、あなたでも十分でしょう」
「しかしねえ、えーっと・・・」
「神崎。神崎ですよ」
GOLDの支配人は、狩野の話に乗った。
あとは、今夜《AKANE》に忍び込んでくるヤツが本物の《南条》だ。
そして、それはたぶん・・・。

神崎は、起死回生を試みて、《AKANE》に裏ROMを仕掛けに侵入した。暗い中の作業が続く。
と、途端に全店の明かりがつけられた。西新宿署防犯課の山辺刑事が乗り込んでくる。逃げようとする神崎を取り押さえ、覆面を剥ぎ取った。
「神崎さん!」
恵子の悲鳴のような声が店内に響いた。
「《南条勇二》・・・やっと会えたね」
店の奥から、狩野がゆっくりと歩み寄ってきた。
「神崎、俺には見えなかった。おまえの心の闇がさ。俺の家庭、仕事、俺の無二の親友まで奪い去って、神崎徹はどこへ行ったんだ?」
『俺の愛していた神崎徹はどこへ行ってしまったんだ?』
狩野は哀しい眸で神崎を見下ろした。
『終わった―――全て終わったんだ』
神崎は目を閉じ、大きく息を吸い込んで、最後の嘘を一気に吐き出した。
「俺はおまえのことを親友だなんて思ったことはない」
『ずっと愛していたんだ、誰よりもずっと』
「学生のときからずっと、おまえは心の中で自分より劣る俺を見下していたんだ。会社だって、同じ開発部で入ったのに、俺はおまえに劣るとされて営業部へ回された」
狩野は澄んだ静かな眸で、言い募る神崎を見つめていた。
「葛岡が社長に就任したとき、弓削という刑事が誰をスケープゴートにすればいいかと聞いてきた。俺は真っ先におまえの名前を挙げたよ!」
立ち上がった神崎は、ナイフを振りかざし、狩野を刺そうとした。もう、昔の二人に戻れないのなら、いっそこの手で殺してしまいたかった。そして、今度こそ自分だけのものにしてしまいたかった。
だが、もみ合ううちに、ナイフは取り上げられ、山辺に取り押さえられてしまった。 全てが終わったのだ。

〈8〉farewell

狩野がGOLDに仕掛けた裏ROMで、GOLDは摘発を受け、葛岡の手足となって動いていた社長の大村薫は逮捕された。
弓削は、特別公務員暴行凌虐致死罪で逮捕された。
全てが終わった。
陥れられた狩野の起死回生の一撃で、葛岡の手足はもぎ取られた。

だが、葛岡にとって全てが終わったわけではなかった。
葛岡は、優れた『かばん屋』であり愛人である神崎を、高い保釈金を積んで拘置所から連れ出した。
「君はもう私から逃れることは出来ないよ。君は金で買われたんだ」
一見して上品なエリート面に浅ましくどす黒い笑みを浮かべて、葛岡は宣言した。
屈辱に唇を噛み、睫を震わせながらも、神崎は葛岡に着いて行くほかなかった。最愛の狩野を失った今、犯罪者として刑務所で臭い飯を食う気にはなれなかった。

狩野にはもう何も残されていなかった。狩野は、家庭も、仕事も、最愛の人も失って、朝早い新宿の街角をうらぶれたコート姿で歩いていた。もう狩野には、一人『かばん屋』として生きていくしか道はなかった。
ふと狩野が目を上げると、白い高級車が道の向こう側に静かに停まった。後部座席から出てきた背の高い影は、仕立てのよい黒いコートを着たサングラスの男だった。男は、狩野を見つめたまま、サングラスを外した。黒いサングラスに隠されていたのは、哀しく切ない神崎の眼差しだった。哀しい眸が何かを訴えかけるように狩野を見つめていた。その唇が何かを語ろうと微かに動いたとき、車の中から男の声がした。
「南条君、そろそろ行こうか」
もう一度なにかを言いたげに狩野を見つめた神崎は、諦めたようにサングラスを掛け、後部座席に収まった。神崎を《南条君》と呼んだ男は葛岡だったろうか。
走り去る白い車の後部座席で、神崎はサングラス越しにいつまでも狩野を見つめていた。
逮捕されたはずの神崎に、こんなところで会えるとは思っていなかった。狩野と同じく全てを失った神崎は、葛岡と共に生きることを選んだのか。
もう愛したものは戻ってはこない。 よれたコートを風になびかせながら、狩野は、新宿の雑踏の中へ消えていった。

おまえだけを愛していた永遠に

{END]



2006.10.20

[Story]