触れもせで 〜続・唇〜 《五》


師走も十四日になると、前日の十三日には煤払いも終わり、あとは歳の市で正月用品を買い求めるばかりになる。
十七日、十八日には、浅草寺の歳の市が開かれる。
江戸のあちこちで開かれる歳の市の中でも、浅草寺の歳の市は人気が高く、人混みのすごさと言ったら、芋を洗うが如くなのだが、長屋から近いこともあり、秀は毎年浅草寺で正月の準備をすることにしていた。
しかし今年は、勇次と年越しをするために、二人連れ立って日本橋の歳の市に行く約束をしていて、秀は密かに楽しみにしていた。


明日が約束の歳の市の日という夜、勇次が秀を訪ねてきた。
「どうしたんだよ」
秀は、怪訝な顔で迎えた。
「実は、な」
上り框に腰を下ろした勇次は、どう切り出したものか、少し迷うような顔で口を開いた。
「おっかさんが、帰ぇってきたんだ」
「え」
目をしばたたいた秀が、次の瞬間、満面の笑みを見せた。
「よかったじゃねぇか」
屈託のない笑顔に、勇次が戸惑った顔をする。
「秀」
「久しぶりに帰ぇってきたんだ、正月も居るんだろ」
「ああ」
勇次の返事を聞いて、秀はまた柔らかな笑みを浮かべた。
「よかったな。おりくさんは節句の行事を大事にするって、お前ぇ言ってたもんな」
「それぁ、そうだが・・・」
おりくとの年越しを選べば、秀との約束を反故にすることになる。
それは、勇次にとっては、本意(ほい)ではない。
「俺のことなら、気ぃ遣うこたねぇよ。せっかくおりくさんが帰ぇってきたんだ。親子水入らずで年越ししろよ」
おりくと勇次は、傍目に見ても仲の良い親子だ。
親に縁のなかった秀には、妬ける程だ。
母親思いの勇次が、わざわざ年越しに合わせて帰ってきたおりくを差し置いて、秀の元に来るとは思えなかった。
秀はそれでいいと思ったし、むしろその方が良いとさえ思った。
「そのことなんだがな。お前ぇ、うちに来ねぇか」
「え」
秀は、勇次の言葉の意味を捉え損ねて、きょとんとして勇次の顔を見返した。
「お前ぇも、うちで一緒に年越しをしねぇか」
重ねて言う勇次の言葉は、突飛としか思えず、秀は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
「何言ってんだよ」
秀は、苦笑した。
「そんなこと、できる訳ねぇだろ」
おりくは、義理とはいえ勇次の母親だ。勇次が、裏の仕事の仲間とはいえ、秀を年越しに誘ったりすれば、察しのいいおりくなら、二人の仲に感づいてしまいかねない。
そんなところに、のこのこと行ける訳がなかった。
「おっかさんと一緒じゃ、嫌かい」
秀は、ふうっとため息をついた。
「そんなんじゃねぇよ。親子水入らずの邪魔をする程、野暮じゃねぇってだけだよ」
秀の言葉に、勇次は小さく微笑んだ。
「だったら、気にするこたねぇよ。おっかさんがさばけた人なのは、お前ぇも知ってるだろ」
「そういうことじゃねぇよ」
秀は、また深々とため息をついた。
「じゃあ、どういうことだい」
問われて、秀は返答に困った。
おりくに、勇次との仲を知られるのは憚られる。
そう言ってしまえば済むようなものだが、どうにも言いづらい。
言えば、勇次は、そんなこと、と笑うだろう。
「とにかく、俺は行かねぇよ」
「どうして」
「どうしても!」
勇次は、瞳にちょっと哀しげな色を浮かべた。
「俺は、お前ぇと一緒に年越しを迎えたいんだがな」
「そりゃあ、俺だって・・・」
そう言って、秀は、思わず俯いてしまった。
「だったら、うちで一緒に」
「だから、それは・・・」
一度は上げた顔を、秀は、また伏せてしまった。
「できねぇよ」
勇次は、軽く眉を顰めて、ため息を吐いた。
「何を、そんなに頑なになってるんだい」
秀は、むっと口を尖らせた。
「俺ぁ、元々こういう気質(たち)なんだよ」
「秀」
勇次は、深々とため息を吐いた。
これ以上は、秀の機嫌を損ねるばかりのようだった。
「分かったよ」
勇次は、腰を上げて、秀を見やった。
気が変わったら、と言いかけて、勇次は口を噤んだ。
もとより頑固なところのある秀が、そうそう前言を翻すとは思えなかった。
何より、これ以上誘えば、秀の機嫌をますます損ねてしまう。
これ以上気まずくなったまま、年越しを迎えたくはなかった。
「・・・おりくさんに、よろしくな」
押し黙っていた秀が、小さな声で言った。
勇次は、小さく笑みを浮かべた。
「ああ」
気まずくなっていても、気遣いを忘れない秀が、愛おしかった。


勇次が帰った途端、秀の胸には寂しさがこみ上げてきた。
思わず、膝を立て、そこに顔を埋めて蹲ってしまう。
勇次に、おりくを差し置いて自分と年越しを過ごしてほしいなどと言えるはずもなく、おりくと三人での年越しなど考えられる訳もなく、そうとなれば、答えは一つしかなかった。
だから、自分が決めたことを後悔してはいない。
いないが、寂しさはまた別物だ。
一人ぼっちの、気楽だが侘しい年越しを思うと、寂しさに胸が潰れそうになる。
バカだな、と秀はひとりごちた。
そんなに寂しいなら、勇次の誘いに乗って、おりくと三人での年越しを選べば良かったのだ。
だいたいが、錺職として一本立ちしてからというもの、年越しはいつも一人だったのだ。
今年も、いつもと同じ年越しを迎えるだけのこと。
そうは思っても、一度は勇次との年越しを考えた分、寂しさ侘しさは募るのだった。


大晦日の日も暮れ、秀は、馴染みの二八蕎麦屋で蕎麦を啜った。
店は、年越し蕎麦を食べる人で大賑わいで、家族連れやら男女の二人連れやらが、賑やかに蕎麦を啜っている。
江戸には独り者の男が溢れているから、秀のように一人で蕎麦を食べる者も特段珍しくはなく、秀もそう肩身の狭い思いはせずに済んだ。
蕎麦を食べ終えると、除夜の鐘を聞きながら、ぶらぶらと家路を辿る。
ちょうど、腹もこなれて体も冷えかけたところで長屋に着いた。
長屋で腰を落ち着けて、芋の煮染めがほとんどのおせちを食べようと箸を取ったところに、ガラリと表の障子が開いた。
「秀さん、秀さん」
と騒々しく入ってきたのは、加代だった。
「なんだよ」
秀が眉根を寄せて顔を上げると、加代は小ぶりのお重を持っていた。
「おせち」
「はあ?」
「作ってあげたのよぉ、秀さんのために心を込めて」
そう言った加代は、秀がつまみかけていた芋の煮染めばかりのおせちを見て、ニヤニヤと笑った。
「侘しいおせちねぇ。お芋ばっかりじゃない。あたしのは違うわよ。黒豆だってごまめだって、なんだって入ってるんだから」
「そりゃあ、ありがてぇや」
秀は、思わず素直にお重を受け取った。
「じゃあ、はい」
と加代が手を差し出す。
「なんだよ」
「おせち代」
加代が、タダで働く訳がなかった。
秀は、ぺちんと加代の手をはたくと、その手にお重を乗っけた。
「芋の煮染めで間に合ってるよ」
「んまあぁ、人がせっかく親切で作ってきてやったってのに、何よ」
キンキン声でそう言うと、加代は来た時と同じく、騒々しく出ていった。
しんと静かになった部屋の中で、ぽつりぽつりとおせちを摘みながら、秀はつい、勇次のことを考えてしまっていた。
今頃は、おりくの作ったおせちを、二人で食べているのだろう。
幸せな二人の姿が脳裡に浮かび、嬉しいような寂しいような、複雑な思いに囚われる。
その光景の中に自分がいることを想像しないではなかったが、やはりそれは、現実にはありえないことだと思った。
おせちで適当に腹を満たしたところで、秀は、枕屏風の向こうから質素な布団を取り出し、床を延べた。
半纏を脱ぎ、腹掛と下穿きだけになって、布団に潜り込む。
「勇次のやつ、一度くらい顔を見せてもいいじゃねぇか」
歳の市の前の夜に訪ねて来て、気まずい別れ方をしたきり、勇次は顔を見せなかった。
秀の方は、おりくのいる三味線屋には顔を出しづらいのだから、勇次に会いに来てほしかったのだ。
はあっと大きくため息を吐いた秀は、ばさりと掛け布団を頭から被った。
「勇次のばかやろ」
そう呟いて目を閉じたものの、なかなか寝つくことができない。
暮れに行違いをしたまま別れてしまったことや、会いに来てくれない勇次のことがぐるぐると頭の中をめぐる。
まだしばらくは会えないのだと思うと、我ながら女々しいと思っても、勇次に会いたい気持ちが募る。
「会いてぇな」
思わず声に出して言ってしまい、秀は布団を被ったまま、耳まで赤くなった。
[続]



2017.12.31

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