触れもせで 〜続・唇〜 《六》


正月も二日のこと。
「勇さん、出かけておいでよ」
そう言われて、勇次はおりくの顔を見返した。
「おっかさん」
「そうソワソワされちゃあ、こっちが落ち着かないよ」
おりくは、ちらりと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「会いたい子がいるんだろ」
見透かされていたことに、勇次はバツの悪い顔をした。
「知ってたのかい」
「暮れから、ソワソワしてたじゃないか」
おりくが、ふふっと笑う。
「でも、おっかさん、久しぶりに帰ってきたんじゃないか」
喧嘩別れとまでは言わないが、秀とは気まずいままに別れてから、会っていない。
正直なところ、早く顔が見たいとは思っていたが、暮れから正月を一緒に過ごそうと、帰ってきてくれたおりくを置いて出かけるのも、気が引ける。
「あたしも、加代ちゃんと料理屋でも行きたいと思ってさ」
それは、嘘ではないが、勇次を出かけさせるための方便だと、勇次には分かった。
しかし、ここはありがたく、その方便に乗ることにした。
「じゃあ、ちょっと出かけてくるよ」
気持ちが急くのを、どうにか抑えて支度を終えると、座敷に顔を覗かせる。
「じゃ、行ってくるよ」
「ああ、行っといで。ゆっくりしておいでな」
おりくのさばけた気質は、前(せん)から承知だが、こうはっきりと言われてしまうと、さすがの勇次もどんな顔をすればいいか分からなくなる。
ちょっとバツの悪いような、照れたような微妙な表情を浮かべた勇次は、軽く頭を下げて見せると、座敷を後にして、表戸の潜り戸を抜けた。


勇次が秀の長屋に着くと、コツコツ、コツコツといつもの軽快な槌の音が聞こえた。
自然に、勇次の口元には笑みが浮かぶ。
「秀」
からりと表障子を開けると、秀が顔を上げた。
「勇次・・・」
秀は、一瞬、驚いたように目を見開いた。
「もう、仕事かい」
後ろ手に表障子を閉めた勇次は、目顔で細工台の上の簪を指した。
秀は、ちらりと作りかけの簪に目を落とした。
「他にやる事もねぇしな」
つまらなそうに、ぼそりと言う。
勇次は、柔らかな笑みを浮かべた。
「恵方詣りは、もう行ったのかい」
「いや」
秀は、むっつりと答える。
「じゃあ、これから初詣りに行かねぇか」
「え」
「そのあと、日本橋の初売りに行こう」
一瞬、嬉しそうな顔をした秀の顔が、すぐに曇った。
「お前ぇ、おりくさんと行かなくていいのかよ」
勇次は、小さく苦笑する。
「おっかさんなら、加代を誘って料理屋にでも行くってよ」
「何だよ、それ」
秀は、合点のいかない顔で呟いた。
「おっかさんなりの気遣いさ」
「気遣い?」
なおさら秀には合点がいかない。
おりくは、いったい何に気を遣ったというのか。
「俺が暮れからソワソワしてるから、会いに行ってこいってさ」
「え」
勇次の言葉の意味を捉え損ねた秀は、きょとんと勇次の顔を見つめた。
次の瞬間、その言葉の意味を理解した秀は、かあっと頬を染めた。
「それって、おりくさんに知られたってことか?」
狼狽する秀を見て、勇次は小さく苦笑した。
「俺が女に会いに行きたがってるって、思ったらしい」
「そっか」
秀は、ほっと胸を撫で下ろした。
「で、初詣りに行くかい」
秀は、やっと拘りのない笑顔を見せた。
「今、片付けちまうから」
そう言うと、手際よく道具を片付け、作りかけの簪を小箪笥に仕舞う。
「ここからだと恵方は、どこになるんだい」
「今年は、下谷稲荷だな」
二人は、連れ立って秀の長屋を出て、下谷稲荷に向かった。


勇次と秀は、下谷稲荷の社殿前で揃って手を合わせた。
目を閉じて、長々と祈っていた秀が、ようやく目を開いた。
「何を、願ってたんだい」
訊いて本当の答えが聞けるとは思っていないが、勇次はつい尋ねた。
「別に。表の仕事が繁盛するようにってよ」
「ふぅん」
本当は、勇次の無事と無病息災を祈っていた。
裏の仕事をしている以上、命の保証はない。
それは、秀も同じだが、自分のことはどうでもよく、ただ勇次が無事であることだけが望みだった。
「お前ぇは何を願ったんだよ」
「お前ぇとずっと一緒にいられるように、ってな」
しれっと言ってのける勇次に、秀はかあっと耳まで真っ赤になった。
「な、何馬鹿なこと言ってんだよ」
どぎまぎと目を逸らす秀を、勇次は笑って見ていた。
「本気だぜ」
そう言ったが、本当の願いは、秀の無事であった。
互いに、互いの無事だけを祈っていた。
だが、二人はそれを知る由もなかった。
「お御籤でも引くかい」
境内をそぞろ歩きながら、勇次が言い出した。
二人とも、信心はそこそこ、お御籤を引くのも、運試しのようなものだ。
「いいな」
屈託なく、秀が笑う。
社務所でお御籤を引くと、勇次は小吉、秀は末吉が出た。
「まあ、こんなところだよな」
と、二人互いに笑い合う。
破魔矢とお札を買って、勇次と秀は、下谷稲荷を後にして、日本橋へと歩き出した。。
下谷から日本橋までは、半時(約1時間)も歩けばよい。
二人はただ他愛のない話をしながら、ゆっくりと歩いた。


日本橋は、初売りでどこの店もごった返し、まるで祭りのような賑わいである。
うっかりするとはぐれてしまいそうな混雑の中、秀は、菊合わせの時に勇次がしたように、勇次の着物の袂を摘んだ。
気づいた勇次が、小さく笑う。
秀は、照れ臭く、ふいと目を逸らしてしまった。
その様(さま)に、勇次はくっくっと喉を鳴らして笑った。
「何だよ」
口を尖らせる秀の耳元に口を寄せて、勇次が囁いた。
「お前ぇは、ほんと可愛いな」
「ばっ・・・」
あまりの台詞に、秀は絶句して、顔を赤らめた。
ぷいっと顔を背けた秀が、勇次の袂から手を離した。
また、くつくつと笑った勇次は、秀の半纏の袖を摘んで、くいっと引いた。
思わず勇次の顔を見た秀は、顔を赤らめたまま、俯いてしまう。
「ばかやろ」
秀は、小さく毒づいたが、勇次の手を振り払いはしない。
そのまま、人混みの中をそぞろ歩く。
少し大きな小間物屋を見つけて、秀は、ぱっと顔を明るくした。
「ここ、覗いていいか」
勇次は、笑みを浮かべて、頷いた。
華やかな女向けの小間物に圧されるように、少しばかりの男物の紙入れなどが並んでいる。
覗き込むように一つ一つ眺めていた秀が、紙入れの一つを取り上げた。
「これ、お前ぇに似合うんじゃねぇか」
勇次の胸元に当てて、嬉しげに笑った。
「そうか?」
と訊く勇次に、ちょっと不満げな顔をして見せる。
「気にいらねぇか」
「いや」
「じゃあ、これにする」
そう言って、店の者に向き直る。
「これ、貰うよ」
「ありがとうございます」
丁寧に頭を下げた手代らしき男が、奥に入り紙入れを包んできた。
代金を払った秀が、勇次に包みを差し出した。
「秀」
「せっかく初売りに来たんだから」
秀は、照れた様子を見せるのが嫌なのか、ぶっきらぼうに言う。
「じゃあ、遠慮なく」
勇次は、微苦笑を浮かべて、紙入れを受け取った。
「ありがとな」
そして、柔らかな笑みを浮かべて、店先を覗き込んだ。
「お前ぇには何がいいかな」
「俺はいいよ」
「遠慮する仲じゃねぇだろ」
勇次が、くつくつと笑った
秀は、うーん、と考え込んだ。
正直なところ、欲しいものなどないのだ。
「じゃあ、何か甘ぇもん、奢ってくれよ」
「そんなもん、いつも食ってるだろ」
「そうだけどよ」
と、秀は口を尖らせた。
「榮太棲の金鍔(きんつば)にでもするかい」
勇次の言葉に、秀が、ぱあっと嬉しげな笑顔になる。
「うん」
榮太棲は日本橋の袂にあり、金鍔は「年季増しても食べたいものは土手のきんつば、さつま芋」と歌にもなった江戸菓子の代表格だ。
榮太棲で金鍔を買った勇次は、一緒に梅ぼ志飴も買い求めた。
「ほら」
秀は、金鍔の包みを受け取ると、大事そうに抱えた。
「とりあえずは、これでも舐めてなよ」
勇次は、袋から摘み出した梅ぼ志飴を差し出した。
「梅ぼ志飴かあ」
また嬉しそうに笑うと、秀は飴を口に含んだ。
梅ぼ志とは言っても甘い飴である。梅干に似た色と形から、洒落っ気のある江戸っ子が梅ぼ志飴と名付けたのだった。
口の中で飴を転がしながら歩く秀は、ご機嫌だった。
勇次は柔らかな笑みを浮かべて、その横顔を見ていた。
「秀、どこかで飯でも食うか」
「ちょうど腹減ったと思ってた」
秀が、屈託なく笑う。
「何が食べたい?」
勇次に問われて、秀は、また、うーんと考え込んだ。
「天ぷらでも鰻でも、好きなもん奢るよ」
勇次の言葉に、秀の眼には、ちょっと悲しいような不満なような表情が浮かんだ。
「蕎麦がいい」
「え」
勇次は、驚いたように、秀の顔を見た。
「蕎麦」
秀が、繰り返す。
勇次は、秀の長屋を訪ねる時、いつも菓子や酒、肴など何かしら買ってきてくれる。
秀が、何かを返したくても、その機会はあまりない。
だからこその、今日の紙入れだった。
なのに、勇次はまた、食事を奢ると言う。
割前勘定にしてくれればいいのに、当たり前のように、奢ると言うのだ。
時折、対等に扱われていないように思えて、秀の心には、小さな棘のようなものが刺さるのだった。
「分かったよ」
また持ち前の頑なさを出してくる秀に、勇次が折れたかと思われた。
「天ぷら、食いに行こう」
むっと顔を顰める秀に、勇次は小さく笑ってみせる。
「勘定は、割り前でな」
秀は、ぱっと明るい表情になった。
「ああ」
秀は、胸にぽっと灯りが灯るような心地がした。
言葉にしなくても、勇次は自分の気持ちを分かってくれる。
そのことが、嬉しかった。
勇次は、柔らかな笑みを浮かべて、嬉しそうな秀の表情を見ていた。
意地っ張りで頑なで、そこがいじらしくて愛おしい。
抱き寄せてしまいたくなるが、これだけの人混みのなかでは、さすがの勇次も気がひける。
つっと手を伸ばして、秀の半纏の袖を摘まんだ。
気づいた秀が、さっと頬を染めて、ちょっと俯いた。
そんな様も可愛く、愛おしい。
そのままそぞろ歩き、目についた天ぷら屋の暖簾を潜った。


勇次は、秀の食べっぷりが好きだ。
秀はどちらかというと細身なのだが、その体に似合わず大食いで、食べる時も口いっぱいに頬張って、まるで子供のように食べる。
目を細めて、その食べっぷり見ていた勇次に気づいた秀が、むっと口を尖らせた。
「なんだよ」
「いや。お前ぇは、本当にうまそうに食べるよな」
かあっと顔を赤くした秀が、また口を尖らせた。
「なんせ、育ちが悪いからな」
悪態をつく秀に、勇次はくっくっと笑った。
「気持ちいい食べっぷりだってことさ」
褒められてるのかどうか分かりかねて、秀はむうっと顔を顰めた。
「褒めてんだぜ」
勇次の言葉に、秀の頬がさっと染まる。
どう返していいかわからずに、秀は、目の前の皿から海老の天ぷらを取り上げて、口に放り込んだ。
もぐもぐと口を動かす秀は、子供っぽいようでいて、そのくせ、油に濡れた唇がどこか淫靡で、勇次はどきりとした。
緩く頭(かぶり)を振って、淫靡な秀の唇の残像を振り払い、勇次は、白身魚の天ぷらを口に運んだ。
ひとしきり天ぷらを食べて、天ぷら屋を後にした勇次と秀は、店じまいをする店が多くなり、人通りも落ち着いてきた日本橋から越前堀に向かって歩き始めた。
越前堀には、一刻(約30分)もあれば、着いてしまう。
「もう少し歩くかい」
勇次の言葉に、秀の表情がぱっと明るくなった。
勇次も秀も、久しぶりに会えて、別れがたいのだった。

下谷の方に向かって、そぞろ歩いているうちに、神田明神下まで歩いてしまった。
「そろそろ、お前ぇは帰った方がいいんじゃねぇか」
秀が言った。
神田明神下は、越前堀から下谷までのほぼ中間あたりになる。
ここで、別れなければ、勇次は下谷まで秀を送ってくるだろうし、そうなると越前掘まで帰るのがずいぶん遅くなってしまう。
「そうだな」
互いの家の中間あたりで別れるのが理にかなっているのは、二人ともわかっているが、それでもあっさりと別れてしまう気にはなれずにいた。
ふと見れば、大きな赤提灯を下げた居酒屋が目に入った。
「少し飲んでいかねぇか」
勇次の誘いに、秀もついうなずいてしまう。
そうして、また酒を酌み交わしながら、他愛のない話に興じる。
大した話でもないのに、次から次へと話題は尽きなかった。

そうこうしているうちに、五ッの鐘が鳴った。
そろそろお開きにしなくてはならない頃合いだ。
名残惜しくはあるが、勘定を払い、居酒屋を出る。
「じゃあ、な」
秀が、思い切るように言った。
「ああ」
そう応えた勇次は、つと秀の肩を抱き寄せた。
「勇次」
訝しげなな顔をする秀の、ふっくらとした唇に掠めるようにくちづけた勇次が、悪戯っぽく笑った。
「今日は、ここまでだな」
「ばっ―――」
かあっと頬を染めた秀は、言葉もない。
「気をつけて帰りなよ」
勇次はそう言うと、秀の肩をぽんと叩いた。
秀は、頬を染めたまま、ぷいっと勇次に背を向けると、片手をあげた。
「おやすみ」
小さな声でそう言って、歩き始める。
その背中をしばし見送った勇次は、越前堀へ向かって、歩き始めた。
[続]



2018.01.02

[五][Story]