Temptation

〜視線〜

『まただ』
赤い罫線の始末書の上を、何を書いていいやら分からないまま、うろうろとペンを彷徨わせていた巽は、じっと自分を見つめている視線に気づいて、胸をざわめかせた。
いつからだろう。自分を見つめる松田の視線に気づいたのは。
今もまた、始末書を書きあぐねている巽の横顔に、松田の視線がじっと当てられている。
ちらりと視線を向けると、松田はふっと微かに眼で笑って見せて、ゆっくりと自分のデスクの上の報告書に視線を落とした。
巽は松田の横顔をそっと盗み見るように見つめると、無意識のうちに詰めていた息をそっと吐き出して、自分も書きかけの始末書に目を落とした。視線を戻しはしたものの、隣のデスクの松田の気配が気になって、始末書に書くべき文句の一つも浮かんではこない。
珍しく大きな事件のない昼下がり、それぞれが書類に走らせるペンの音以外は聞こえてこない刑事部屋で、巽は、自分の鼓動が徐々に高鳴るのを感じ、それが隣の松田に聞こえはしないかといっそう鼓動を速めていた。
そんな巽の動揺を知らぬげに、松田は、さっきまで巽の横顔に視線を当てていたことなどなかったかのように、報告書に目を走らせていた。

じりじりと灼けつくような視線を背中に感じながら、巽はハーレーを走らせていた。
いつものパトロール。ハーレーを駆る巽と併走する黒パトの運転席には、松田の姿があった。
松田が自分を見ている―――。
巽は、ミラーを覗くまでもなく、そのことを確信していた。意識すまいとすればするほど、松田の視線は背に突き刺さり、胸の鼓動は、ハーレーのエキゾーストノートすらかき消すほどに高鳴った。
いつの頃からか、巽がふと気づけば、松田は折に触れ巽を見つめていた。視線に気づいた巽が松田に眼を向けると、松田は意味ありげに微かに目で笑って見せて、ゆっくりと視線を逸らす。そんなことをもう何度繰り返しただろう。
巽は、いつの間にか無意識に松田の姿を眼で追っている自分に気づいて、ひとり密かに戸惑っていた。
何故、松田は巽を見つめているのか。
何故、巽は松田の姿を追ってしまうのか。
戸惑いの中に、浮かんでは消える疑問に、巽は答えを持たなかった。

向かいの源田の席に腰掛けた松田が、隣に立つ源田となにやら楽しげに談笑している。
その横顔をそっと盗み見た巽は、視線に気づいたかのようにちらりと視線を投げてよこした松田から慌てて目を逸らし、書きかけの始末書にペンを走らせた。どきどきと高鳴る鼓動が、誰かに聞こえはしないかと冷や汗をかく。
耳まで赤く染めた巽を視界の端に捉えながら、松田は源田の馬鹿話に相槌を打っていた。
少年の面差しを残した巽が、自分の視線に戸惑っている様を見て、松田は密やかな喜びを感じていた。
見つめる。視線に気づいた巽が見つめ返してくる。その視線をまっすぐに受け止め、微かに眼だけで笑って見せる。何事もなかったかのように視線を逸らす。戸惑いながら松田を見つめている巽の視線を全身で感じる。
何度も何度も繰り返される秘め事。
その隠微な交流が、巽の胸の中にどんな漣を立てているのか。松田はそれを十分に知りながら、ただ巽を見つめるのだ。
密やかに、視線だけが絡み合う―――。


2004.03.05
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