これは、呉服屋の娘の婚礼の為のもの。これは、大工の若者が恋仲の棟梁の娘にと誂えたもの。これは・・・。
抽斗の奥にひっそりと隠すように置いてある幾つかの簪を取り出して、秀は、その本来の持ち主に思いを馳せた。もう今はこの世にはいない娘たちに。
これらの簪は、持ち主たちの非業の死により、仕事料として、あるいは仲間の手を経て、あるいは秀自身の手に直に、託されたものであった。
本来であれば、売るなり何なりして金に替えなければならない代物だ。だが、秀にはそれができず、かと言って、鋳潰して新しく簪を作る材料にすることもできなかった。
その多くが、秀自身が依頼を受けて、一本一本特別に誂えたものであり、一人一人の依頼人の顔が、今も鮮明に思い出される。
秀は、仲間たちには秘密にして、これらの簪を手許に置き、時折取り出しては、哀しい眸で眺めていた。

「なんだお前ぇ、灯りもつけねぇで・・・」
聞き慣れた声にふと眼をあげると、長屋の中はいつの間にか、すっかり薄闇に覆われていた。
「三味線屋・・・」
障子戸を後ろ手に閉めた勇次が、訝しげに眼を眇めている。
秀は、慌てて、手にしていた簪を勇次の眼から隠した。
「なんか用か」
努めて平静を装いながら、秀は、灯りを灯した。ゆらりと揺れた灯りが、長屋の中に勇次の端正な姿を浮かび上がらせた。
「いや、ちょいといい酒が手に入ったんでな。偶にはお前ぇと呑もうかと・・・」
言いながら座敷に上がり込んで来た勇次の手には、酒徳利が提げられていた。その勇次の眼は、さりげなく、秀の隠した簪に向けられている。勇次は、秀に気づかれないように、そっと眉を顰めた。
「珍しいこともあるもんだな」
秀は、そう言って笑うと、勝手へと下りた。
「なんか、あったかな・・・」
がさごそと勝手を探って、肴を見繕う。
「こんなもんしかねぇぜ」
見つけた干物を適当に皿に乗せ、炙る為の七輪と一緒に抱えて座敷に戻る。
勇次が、隠しておいた簪を手に取り、弄んでいるのに気づいて、秀は慌てて簪を取り返した。
「勝手に見てんじゃねぇよ!」
がたがたと音を立てて、簪を抽斗の奥に仕舞い込む。
「お前ぇ、それは・・・」
「何でもねぇよ」
何かを察したような勇次の言葉を遮る。
「それより、酒、あっためるか?」
不器用に誤魔化そうとする秀に、勇次は眉を顰めてふっと息を吐いた。
「銚子、あるかい」
「ああ、悪ぃ。取ってくる」
秀は、ぱたぱたと勝手に下りると、銚子を二本提げて座敷に戻って来た。
勇次が、片口に移した酒を銚子に注ぎ、燗をつける間に、秀は見繕った干物を七輪に乗せて、渋うちわでぱたぱたと扇いだ。
「あっち!」
炙った干物を皿に取ろうとして、熱さに取り落とし、焼けた指で耳を摘まむ。
「何やってんだ」
小さく笑った勇次が、ついと手を伸ばし、耳を摘まむ秀の手を取った。
「!」
柔らかく掴んだ手を引き寄せ、赤くなった指先を口に含む。びくりと秀の身体が震えた。
「何す・・・」
ちろりと舌先で指先をなぞる。
「お前ぇの指は大事な商売道具だろ。気ぃつけな」
頬に朱をのぼらせた秀が、乱暴に手を取り戻す。
「お前ぇ、何考えてんだ。俺は、女じゃねぇよ」
「そうさな」
勇次は、面白そうにくつくつと咽喉で笑った。
「そろそろ燗もついたようだぜ」
布巾で摘まんだ銚子を軽く掲げる。
「ああ」
少し憮然とした様子で、秀がぐい呑みを二つ膳に置くと、勇次が酒を注いだ。
「こりゃ、旨ぇや」
酒を含んだ秀は、表情を和らげた。
炙った干物を肴にぽつりぽつりと他愛ない言葉を交わしながら、酒を呷る。
ほんのりと、秀の目許が酔いに染まった頃。
「さっきの簪、な。あれぁ・・・」
酒を含んだ勇次が、ぽつりと呟いた。
秀は、はっとして勇次の顔を見やり、すっと眼を伏せた。
「何でもねぇよ」
ふいと顔を背け、低い声で答える。
「・・・あれぁ、仕事料だろ」
「違う・・・って言っても通じねぇんだろうな」
秀は、苦い笑みを口元に刷いた。勇次の眼が、痛ましいものを見るように細められた。
「始末しなかったのかい」
できなかったのであろうことを知りながら、あえてそう言葉にする。
「できる訳ねぇだろっ」
小さく叫ぶと、秀は手にしたぐい呑みを音を立てて膳に置いた。
「金に替えるなんて、できっこねぇ」
秀は、ごくりと唾を飲み込んだ。くっきりとした喉仏が上下する。
「あれは俺が作った・・・頼まれて、一つ一つ・・・幸せになるようにって、柄にもねぇけど、そんな風に願いながら作ったんだ・・・それを・・・」
胸のつかえを吐き出すように、俯いて途切れ途切れに言葉を紡ぐ秀を、勇次は黙って見守るように見つめていた。泣き出してしまうのではないかと案じながら。
秀は、涙こそ零さなかったが、その横顔は泣いているも同然だった。
「それで、取り出してみちゃあ、一人でそうして泣いてんのかい」
勇次の言葉に、秀はきっと勇次の顔を睨みつけた。
「泣いちゃいねぇ」
「眼が赤いぜ」
やんわりと言われて、秀は、ふいと顔を背けた。
「そんなものぁ、さっさと忘れちまいなよ」
勇次の柔らかな声が、囁いた。伸ばした手をそっとまろい頬に添わせ、背けられた顔を己れに向けさせる。きゅっと引き結ばれた唇に親指を這わせた。指先に触れる唇は、微かに震えていた。
「・・・忘れさせてくれよ、三味線屋。今だけでいいから・・・」
痛い所に触れられたかのように、秀の眉根がきゅっと寄せられた。
そうだな。所詮、こんなものはひと時のまやかしでしかない。
勇次は、胸の中に呟いた。
ひと時忘れさせることはできても、秀の心に棘のように突き刺さったものを抜き去ることができる訳ではない。それを百も承知で、今はただ、このしなやかな身体を抱き締めるより他に、何もできはしないことを知っていた。
微かに震える身体を腕の中に抱き寄せる。顎を摘まんで、そっと仰のかせた。
「ああ、忘れさせてやるよ」
囁きながら、ふっくりとした唇に唇を重ねる。
秀の手が、縋りつくように勇次の袖をぎゅっと握った。
角度を変えながら、深く深くくちづける。そっと下唇を甘噛みすると、秀の唇が誘うように薄く開いた。
するりと忍び込んだ舌が、歯列をなぞり、口蓋を舐め上げる。
秀の身体が、ふるりと震えた。
濡れた唇を、滑らかな頬からすんなりとした首筋に滑らせる。
「勇次・・・」
秀のふっくらとした唇から、甘えるように勇次を呼ぶ声が、零れ落ちた。
普段は、決して見せることのない、心の揺らぎ。『仕事人』として生きるには優し過ぎるが故に深く傷ついた心の闇を、だが、一人で抱えざるを得ない秀の、心の揺らぎを、勇次は腕の中に抱き留めた。
「全部、忘れちまいな」
そう囁くと、勇次は、擦り切れた半纏の衿を大きく寛げ、露わな鎖骨にそろりと白い歯を立てた。
秀の身体が、勇次の腕の中で、ひくりとしなる。
勇次の白い指が、腹掛けの中に忍び込むと、秀の唇から熱い吐息が漏れた。
帯を解かれた半纏が、するりと肩から滑り落ちた。背に廻した手で腹掛けの結び目を解き、そのまま取り去る。露わになった平らかな胸に丹念に舌を這わせた。
秀の腕が、親を求める子どものように、勇次の背中に縋りついた。ぎゅっと衣を掴み締める。
下穿きの中に滑り込んだ手が、さらに下帯の中に潜り込み、熱を帯びた秀自身を包み込んだ。指を絡めて、ゆっくりと揉みしだく。
「ああっ」
よく通る低い声が、濡れた悲鳴を上げた。
勇次は、秀の果実を嬲りながら、滑らかな胸に息づく小さな屹立を舌で転がし、捏ねるように潰した。
びくびくとしなやかな身体が揺れ、濡れた唇からは、熱い吐息が漏れ続けた。
果実を濡らす透明な滴りを指で掬い取ると、さらに奥に息づく秘めやかな場所に、濡れた指を這わせる。ひくひくと蠢く蕾は、難なく勇次の指を呑み込んだ。
「く―――」
くぐもった声が、零れ落ちた。逃げようとする腰を抱き留め、二本の指を埋め込む。熱い肉襞の最も敏感な場所を指の腹で擦りあげると、しなやかな身体が大きく反り返った。
「あ―――ゆ・・・じ・・・」
喘いだ秀の腕が、勇次の首に絡みつく。
勇次は、腕の中のしなやかな身体をくるりと入れ替え、擦り切れた畳の上にうつ伏せに押し倒した。下穿きを抜き取り、露わになった細い腰を掴み、持ち上げる。
「秀」
甘く名を呼び、熱い滾りを、密やかに息づく蕾にあてがう。
「全部、忘れちまいな」
ぐっと力を入れ、細身の身体を刺し貫いた。
「ああ―――っ」
甘い悲鳴とともに、秀の背中が反り返る。
後ろからしなる身体を抱き締める。勇次の動きにつれて、細い身体ががくがくと揺れた。
するりと滑らせた手で、秀自身を柔らかく握り込む。
「ん・・・んん―――」
柔らかな髪に覆われた項に舌を這わせると、半開きになった秀の口から、熱い吐息が間断なく零れ落ちた。濡れた音が、仄暗い部屋に響く。
秀自身を嬲る手を速めると同時に、腰を大きく突き上げる。
熱い精を秀の中に放つと、秀もまた勇次の手の中に白い精を零した。
がくがくと揺れたしなやかな身体から、がくりと力が抜ける。二人、折り重なるように畳の上に崩れ落ちた。
勇次がそろりと身を離すと、秀の唇から小さな吐息が漏れた。
しっとりと濡れた項に唇を落とすと、びくりと秀の身体が震えた。
「もっと・・・」
秀が、小さく喘いだ。
「もっと、滅茶苦茶にしてくれよ・・・」
いつもはいっそ淡白と言っていい秀の、珍しい言葉に、勇次は眉を顰めた。
「無理するもんじゃねぇよ」
畳に頬を押しつけたまま目を閉じている秀の髪にそっとくちづけ、身を起こす。勝手知ったる狭い長屋の押入れから、簡素な布団を取り出し、床を延べてやる。
「少し眠りな」
ぐったりと動こうとしない秀を、抱えるようにして布団に横たえ、掛布団を掛けてやろうとすると、その手を秀が掴んだ。
「勇次・・・」
ゆっくりと長い睫毛が持ち上がり、潤んだ眸が勇次を見上げる。
「忘れられないんだ・・・簪を頼んだ人の顔が・・・簪を見て喜んでた娘たちの顔が・・・忘れられねぇ・・・」
ひとつ瞬きをすると、大きな眸から一筋の涙が零れ落ちた。
「忘れられねぇんだ」
低い声が、咽び泣いた。薄い肩が震える。
勇次は、自分の手を掴む秀の手を取り、そっと指を解いた。そのまま、その手を握り締めてやる。
「忘れられねぇなら、覚えておいてやりゃあいいさ。それが、お前ぇだ。無理に忘れるこたぁねぇ」
握りしめた手を口元に引き寄せ、そっとくちづけた。
「この手が丹精した簪だ。大事に仕舞っときな」
つくづく甘いな。
勇次は、そう自分を嗤った。
闇に生きる『仕事人』としての厳しさを身に染みて知りながら、それ故に、理不尽な死を迎えた頼み人たちへの想いを捨て去ることのできない秀の甘さを、危惧しながらも羨んでもいる。甘さゆえに揺れ動く秀の心を、愛おしんでいる。
「一人で抱え込むのが辛ぇなら、俺がいるよ」
決して、救うことができるわけではないと知りながら。それでも、勇次はそう言わずにはいられなかった。
頼み人たちの無念を見せつけられるたび、そして、恨みを受ける者たちとは言え、人の命を手に掛けるたび、痛みは雪のように降り積もり、決して融けぬ根雪のように心の中にあり続ける。『仕事人』として生きる以上、それは秀にとっても勇次にとっても、逃れようのない宿命だった。
「お互い、因果な道に踏み込んじまったってことさ」
そう言うと、勇次は秀にくちづけた。そっと唇を離すと、秀が吐息とともに囁いた。
「抱いてくれよ」
勇次は何も言わず、秀の首筋に唇を落とした。夜の帳に覆われた長屋の中、密やかな吐息を絡め合う。
中天にかかった月だけが、すべてを見ていた―――。


2013.07.18
 

[Story]