「秀、いるか」
夕暮れ時、暑さに開け放った表戸から、日除けの簾を潜って勇次が入ってきた。
「よう」
秀が簪から顔を上げると、勇次は大きな西瓜を提げていた。
「西瓜かぁ」
秀が、ぱあっと、まるで子供のような嬉しそうな顔になった。
「ああ、冷やしとこうぜ」
「ん」
身軽に立ち上がった秀は、桶を持って井戸端に向かった。
勝手知ったるなんとやら、勇次は西瓜を抱えて部屋に上がった。
秀が、冷たい井戸水を汲んできた桶に西瓜を入れ、狭い濡れ縁に置いて、勇次を振り向いた。
「さてと。お前ぇ晩飯食ったか」
「いや」
秀は、ちょっと困ったように笑った。
「そっか。メザシしかねぇけど、それでいいか?」
「ああ」
秀は、簪や道具を手早く片付けると、土間に下りた。
井戸端へ行き、米を研いで戻ると、手際よく飯を炊き始めた。
「何か手伝うか」
「じゃあよう、味噌汁作っから、葱切ってくれよ」
「ああ」
トントンと軽やかな音を立てて、勇次が葱を刻む。
「意外だよなぁ」
「何が」
感心したような秀の声に、勇次が顔を上げて秀を見やる。
「おりくさんがいるから、お前ぇは料理なんてできねぇと思ってた」
「おっかさんは、仕事で長く家を空けることもあったからな」
勇次がさらりと言った。
「悪ぃ・・・」
触れてはいけないところに触れてしまったような気がして謝る秀に、勇次は小さく笑った。
「莫迦だな。親がいりゃあ十分だろ」
秀には親がいない。
勇次自身は、義理でも仕事人でも、親がいる自分は十分に恵まれていると思っている。
「そだな」
勇次の言葉に、自分への労わりを感じて、秀はほんのりと胸が温かくなるのを感じた。
それからは、他愛のない話をしながら、メザシを焼き、味噌汁を作って、夕食の支度を整えた。
「よく冷えてるぜ」
何度か井戸水を換えた桶の西瓜を触った秀が、嬉しそうに言った。
いそいそと西瓜を抱えて、土間に下りると、ザクザクと切る。
濡れ縁に腰を下ろした勇次の隣に、皿に盛った西瓜を持った秀が、胡座をかいた。
「さあ、食おうぜ」
言うなり、西瓜を取り上げてかぶりつく秀を、勇次は笑って見ている。
「美味ぇな」
子どものように嬉しそうに食べる秀を見ながら、勇次も一切れ取り上げた。
「ん、甘ぇな」
一口食べた勇次の科白に、秀はくくっと笑った。
「お前ぇ、こういう甘ぇのも苦手なのか」
「いや、こういうのは嫌いじゃねぇよ」
「ふぅん」
秀が、ぷっぷっと、小さな裏庭に向かって種を飛ばした。
子どものような仕草に、勇次は思わず笑い声を漏らした。
「何だよ」
「別に」
そう言った勇次は、秀を真似て、ぷっぷっと種を飛ばした。
端正な勇次に似合わない仕草に、秀はまたくくっと笑った。
「何だよ」
「別に」
さっきと同じ科白に、二人は顔を見合わせて笑った。
「あ、そうだ」
「ん?」
続けて二切れ食べた秀は、ふと何かを思い出したようだった。
手拭いで西瓜の汁に汚れた指を拭いて、立ち上がる。
すぐに濡れ縁に戻ってきた秀の手には、線香花火の束があった。
「なんだい、それぁ」
「加代だよ」
訝しげな勇次に、秀はちょっと憮然とした顔をした。
「加代のやつ、花火売りを引き受けたのはいいけど、売れ残りを押しつけていきやがって」
「加代らしいな」
勇次が、くつくつと笑った。
「だろ。けど、ちょうどいいだろ」
線香花火を一つ、傍らの蚊遣りにかざして火をつける。
すぐに、パチパチと火花が飛び始める。
「たまには、こういうのも悪くねぇな」
闇の中に飛び散る火花を眺める秀の横顔を見て、勇次は柔らかな笑みを浮かべた。
「ああ、落ちちまった」
最後に残る火の玉を、そうっと見ていた秀が、子どものように残念そうな声を上げた。
勇次が、その手を掴んで、ぐいと引き寄せた。
「勇次」
秀は、一瞬見開いた目を、そっと閉じた。
唇と唇が、静かに重なる。
「ふ・・・」
繰り返されるくちづけの合間に、秀の唇から甘い吐息が漏れた。
あの夜の約束通り、くちづけだけを繰り返して、勇次がそっと秀の身体を離した。
「勇次・・・」
勇次が、小さく微笑んだ。
「約束、だからな」
「ん」
小さく頷いた秀は、また一つ線香花火を取り上げると火をつけた。
パチパチと飛び散る火花が、暗闇の中に秀の横顔を浮かび上がらせる。
勇次は、何も言わず、その横顔を見守っていた。