no-dice

Blue Moon


空には大きな丸い月。ネオンの煌きの向こうに懸かる月は、ほんの少しオレンジがかっていて、それでもさえざえとした光を投げかけていた。
月なんて、いや空なんて見上げるのは随分と久しぶりだった。先月の末に起きた強盗事件の捜査はひどく難航して、ようやく目処が立った頃、新たに殺人事件が起きた。もちろん交代で休みを取ってはいたが、連日の捜査に追われて疲れ果て、きっと誰も空を見上げることなど思いもしなかった。
ほんの数日前に殺人事件の犯人を逮捕し、今日ようやく送検までこぎつけた。まだ、抱えている事件は2、3あるが、大きな事件が一つ片付いたことで、皆、少しは肩の荷が降りたような気がしている筈だ。 松田と巽も、行きつけの店で遅い夕食を摂りながら、久しぶりに旨い酒を少しばかり飲むことができた。
ほろ酔い加減で店を出て、ふと見上げた空に懸かった大きな月。
「"月がとっても青いから〜"・・・なんてね。」
「――おまえねぇ、せめて、"Moon river――"くらい歌えって。――似合わねぇなぁ」
巽の鼻歌に、ぷっと吹き出した松田が低く歌って、くすくすと笑い出す。
「けど、まあ、月見るのなんて久しぶりだな」
「だろ?だからさあ・・・」
「遠回りして帰ろうってか?」
松田に先回りされて、巽はおおげさに肩を竦めてみせた。
「ま、ね」
巽の照れ隠しに笑いを誘われながら、松田が歩き出す。
「確かに、ちょっと歩きたくなる夜だよな」
一つ角を折れて、表通りから一本外れた道に出ると、ネオンの光も喧騒も思った以上に遠くなった。降り注ぐ月光は、スモッグと街の灯りに染められて青くはなかったが、そう捨てたものでもなかった。
取りたてて目的もなく、何を話すでもなく、ただそぞろ歩く。連日、朝早くから夜遅くまで、散々足を棒にして聞き込みに歩いていたくせに、まだ歩きたいなんて妙なもんだ、と松田はふと可笑しくなった。
――けど、まあ、こういうのもたまには悪くない。
「何笑ってんの」
「いや、どうせ明日っからまた聞き込みで歩き回ることになるのに、こんなとこふらふら歩いてるってのも妙なもんだと思ってな」
「けどよ、たまには悪くねぇだろ、こういうのも」
つい今しがた思ったことを言葉にされて、松田は妙にくすぐったいような気分になった。
「リキさん」
呼ばれて振り向くと、巽のまっすぐな眼差しに捉えられて、松田はふと引き込まれそうになる。
つ、と松田に身を寄せた巽の動きがふいに止まった。
「あのさあ、眼くらい閉じて――」
ガタン。
突然、少し先の暗がりで起きた物音に、反射的に身構えて目を凝らすと、物陰から小さな影が走り出し、驚いたように立ち止まった。
「なんだ、猫かよ」
ふっと身体の力を抜いて、二人はちらりと目を見交わして苦笑した。
「まだ、仔猫だな」
松田は、突然の闖入者に驚いて立ちすくんでしまっている仔猫に手を伸ばすと、ひょいと抱き上げる。野良猫らしいのに、意外と大人しく抱かれているのは、まだ驚きが覚めていないせいだろうか。
「おまえさんも散歩かい、おチビさん?」
ニャー。仔猫は、松田の言葉に返事でもするかのように、小さく甘えた声で鳴いた。
「――お仲間だってよ」
松田はくすくすと笑いながら、巽の鼻先に仔猫を差し出した。
「ガキが夜歩きってのは感心しないよな」
巽が笑いながら、仔猫の鼻の頭をちょんとつつく。
「じゃ、おまえも夜歩きはやめとけよ」
「また、ガキ扱いかよ?」
松田の言葉に憮然とした巽は、仔猫を抱いて両手の塞がっている松田の腕を捉えて引き寄せた。途端――。
「イテッ」
巽が突然小さく声を上げた。何が気に入らなかったのか、仔猫が巽の頬を引っ掻いたのだ。それだけでは足りないらしく、急にじたばたと暴れだし、松田の手から抜け出してしまった。
「あ、おい、ちょっと――」
特に他意もなく、逃げていく仔猫を追おうとした松田を、巽が引き戻す。
「リキさんさあ、俺より猫のがいいわけ?」
憮然としたような巽の眼にまともに覗き込まれて、さすがに松田も一瞬たじろいだ。
「おまえ、何言って――」
松田の言葉を遮るように松田の唇に唇を寄せた巽は、仔猫に引っかかれた頬にふいに触れた、温かく柔らかな濡れた感触に、思わずわずかに身を引いた。
「!――リキさん?」
呆然としている巽の前で、松田は身を折らんばかりにして笑っている。
「あはっははっ――おまえ、そこで逃げるか、普通?」
「な――!」
絶句した巽を尻目に、松田はぺろりと舌を出すと悪戯っぽく笑ってみせた。
「大丈夫、舐めときゃ治るよ」
そう言うと、くるりと背を向けてすたすたと歩き始める。夜目にも、細い肩が震えているのが見て取れた。
「ちぇっ、調子狂うよなー・・・」
しばらく呆然と、松田の後ろ姿を眺めていた巽も、一つ頭を掻くと松田の後を追って歩き出した。
すぐに追いつき肩を並べて歩き出す。取りたてて行くあてもなく、何を話すでもなく、ちょっとくすんだ月明かりに照らされて――。
[END]


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