no-dice

The Tears of the Moon ◇2◇

〜One-Night Stand V〜


松田は、ときどき、遠い眼をする。
捜査に追われて、眼の回るような忙しさに駆り立てられているときも、デスクに向かって書類をまとめているときも、ふとしたはずみに、どこか遠くを、あるいは自分の心の奥深くを覗き込むかのように、遠い眼をした。
そんな時、鳩村には、松田が急に遠いものに感じられた。
そして、鳩村は、松田が遠い眼をした日は、時間の許す限り、必ず松田を飲みに誘った。 松田は、初めて肌を重ねた夜ほどではなかったが、必ずと言っていいほど酒に溺れた。何かを振り切るように酒に溺れて、鳩村の差し出す手に縋りつくように身を委ねた。
何度肌を重ねても、鳩村にとって松田は、どこか遠い存在のままだった。
あの夜以来、松田は、どんなに乱れても、決して巽の名を呼ぶことはなかった。
だが、同じように、決して鳩村の名を呼ぶこともなく、ただ何かを断ち切るように、鳩村の与える愛撫に応えた。
胸の軋むような想いを抱き締めて、鳩村は松田を抱いた。決して自分を振り向くことがないと知りながら、傷ついた小鳥のような情人を、鳩村はどこまでも優しく抱き締めた。

巽に抱かれている夢を見ている。そう、夢に過ぎない。
煙草の匂いが違う、コロンの香りが違う、整髪料の匂いが違う。何もかもが違うのに、ただ、鳩村の体に染みついた、手入れの行き届いた革の匂いと僅かに混じるオイルの臭い―――それだけが、記憶の奥底に眠っていた巽の面影を、どうしようもなく呼び覚ました。
巽のことを、桐生のことを、裏切っている。そして今また、鳩村のことをも裏切っている。
そのことを痛いほどに知りながら、それでも松田は、鳩村の差し伸べる手に縋りつかずにはいられなかった。
ただ一度だけ重ねた肌の熱さ。一夜だけ包まれて眠った巽の匂い。甘えるように松田の名を呼んだ声。稚い、だが、情熱的な愛撫―――。何もかもが、いとおしく甦り、松田の心を責め苛んだ。
何故、あのとき、心のままに巽の想いに応えなかったのか。『男だから』―――ただ、そのことだけに拘って、巽の想いも、おのれの想いさえも裏切った。
だから、『男』である桐生の想いさえも、頑なに拒み通した。松田には、受け入れることができなかった。それは、巽への裏切りに思えたから。
なのに、今―――。
鳩村の腕の中で目覚めるたびに、これは巽への、そして桐生への裏切りなのだと思い知りながら、松田は、懐かしい面影に抱かれる夢を見ずにはいられなかった。 鳩村の与える温もりも、巽への想いも、松田には断ち切ることができなかった。

「俺は、卑怯だな」
酔いに身を任せた松田がぽつりと呟いた。
「なんで?」
鳩村は、少し笑って問い返した。
「こうやって、お前の好意に甘えてる」
苦く笑った松田は、グラスを額に押し当てて、俯いた。
「『男だから』なんて言っておきながら・・・あいつらの気持ちを踏みにじっておきながら・・・今は―――」
ことりとグラスを置いた松田は、初めて自分から鳩村にくちづけた。
「お前に、抱かれてる」
「男だからとか、女だからとか、そんなこと関係ないでしょ」
鳩村は、震える松田の肩を抱き寄せた。
「愛し合うのに、理屈なんていらないんだから」
鳩村の胸に頬を寄せて、松田は小さく笑った。
「お前も、同じことを言うんだな」
「え」
訝しげな鳩村をよそに、松田は震える瞼を閉ざして呟いた。
「あいつらも同じだった―――同じだったのに、俺は・・・俺だけが頑なに心を閉ざして」
「リキさん―――」
「結局、あいつらを傷つけた―――多分、お前のことも傷つけてるんだな」
酔いに身を任せ、半ば夢うつつの中に松田は呟きを零した。
鳩村は、松田を抱く腕に力を込めた。
「俺のことはいいんだよ。俺は、分かってるから。リキさんが傷ついてるの、分かってるから」
鳩村には、あいつら―――巽と見知らぬ誰か―――への後悔を抱きながら、自分を責め続ける松田が痛々しかった。松田の過去に何があったのかは、分からない。だが、松田が傷ついていることが分かっていれば、鳩村にはそれだけで十分だった。 細い頤に手を添えて仰のけさせた松田の睫毛が濡れていた。そっと唇で滴を拭い、その薄い唇にくちづける。
「もうこれ以上自分を責めないで」
そう囁くと、鳩村は、松田の細い身体を抱き上げて、寝室へ向かった。 たとえ、巽の代わりに過ぎなくても、今、松田に温もりを与えられるのは、自分だけだということを、鳩村は知っていた。

満月の青い光に濡れながら、松田は、いつになく激しく鳩村を求めた。
いつもシーツをきつく握り締めていた細い指が、鳩村の背に小さな爪痕を残した。
ゆっくりと慈しむように腰を突き上げる鳩村の動きにあわせて、松田の唇から甘い吐息が漏れた。
松田の細い腕が、縋りつくように鳩村の広い背中を抱き締めた。
「ハ―――ト」
きつく眉根を寄せた松田の薄い唇が、初めて鳩村の名を呼んだ。
「リキさん―――」
鳩村は、思わず松田の細い背中をきつく抱き寄せた。挿入が深くなり、松田は、切なく喘いで意識を手放した。
腕の中の確かな温もりを感じながら、鳩村は、確かに何かが変わる予感がした。

タタタタタッ―――
それが人の命を奪うとは思えないほどに軽快な速射音が響き、それにあわせて、鋼鉄を撃ち抜く硬質な響きが鳩村の耳を打った。
松田の細い肢体が、速射音にあわせて、激しく前後に揺れた。
染み出してくる不吉な赤―――。
残酷なまでに鮮やかな朱に染まった松田の身体を、大門が抱え起こした。力をなくした松田の手を掬い取り、握り締める。
「リキ!リキ!」
大門の声に応えるように、松田の手が大門の手を握り返した。
「リキさん!」
「リキ!」
口々に松田の名を叫ぶ仲間たちに詫びるように、薄く笑みを浮かべた松田の目尻に、光るものが見えた。
「リキさん!」
鳩村は、喉も嗄れんばかりに松田の名を叫んだ。だが、松田がその声に応えることはなかった。
「・・・・・」
松田の最期の呟きは、誰の耳にも届かなかった。

「リキさん、あんたズルイよ。一人でさっさと逝っちまってさ」
鳩村は、物言わぬ冷たい石の前に、白い百合の花束を手向けて呟いた。口元に微苦笑が浮かぶ。
結局、何も変わらないまま、松田は、鳩村を置き去りにして、巽の元へと旅立っていった。
「そっちで、やつには会えたのかい?」
青い月の雫に濡れながら、鳩村は、いつまでも一人佇んでいた―――。

[END]



2005.9.17

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