no-dice

LIAR GIRL ◆1◆


パタパタパタ・・・と軽い足音が背後から駆けて来た。
「わ」
平尾一兵は、いきなりぐいっと上着の裾を引っ張られて、大きくのけぞった。そのまま、くだけそうな膝で振り向くと、ちょうど目線の先に、大きな瞳に長いまつげの少女の顔があった。
「助けて!」
二つに分けた長い髪を両耳の上で結わいた少女の顔が、必死の面持ちで訴えた。
「どうしたの?」
正直、子供の言うことだからたいしたことではないと高をくくってはいたが、平尾は一応そう訊ねてみた。
「あたし、殺される!」
イチゴのように赤くぷっくりとした唇から、剣呑な言葉が零れ落ちた。
「殺される?」
「そう」
こくんとうなずいた少女の髪が、くるりと揺れた。
「あすかね、悪いおじさん見ちゃったの」
自分のことを『あすか』と呼んだ少女は、きゅっと眉根を寄せた。
「悪いおじさんって、どんな悪いことしてたのかなあ?」
平尾は、まだ高をくくったままで、少女に訊いてみた。
「――――ん、とね、鞄と鞄を交換してたの」
あすかの答えに、平尾は、かくんと膝を折った。
「鞄と鞄を交換したからって、悪いおじさんとは限らないでしょぉ」
平尾は、参ったなあ、と頭を掻きながら、膝を伸ばして少女を見下ろした。
「おじさん・・・じゃないお兄さんをからかわないでよ、あすかちゃん」
「からかってないもん!」
あすかは、つん、と唇を尖らせた。
「あれはねぇ、絶対マヤクよ」
少女の口から零れるにはあまりにも不似合いな言葉に、平尾は、嘘や冗談ではない何かを感じた。
「麻薬?見たの?」
もう一度あすかの眼の高さに目線を合わせて、平尾は訊ねた。
「ううん」
あすかが首を横に振ると、くるりと巻いた髪がふわふわと揺れた。
「でもね、でも、絶対、あれは悪いおじさんなの!」
まだ十歳前後の少女の口から出るには、『麻薬』という言葉は具体的すぎる、と平尾は考えた。
『もしかして、本当かもしれない』
そう考えて、さらに詳しく話を聞こうとした矢先、少女の向こうから同僚の鳩村英次が近づいて来た。
「お、イッペイ。なに、お前。あんまり振られるからって、お子様ランチを口説いちゃダメでしょ」
『お子様ランチ』という言葉に敏感に反応したあすかが、くるりと鳩村を振り向いた。
「お子様ランチじゃないもん!」
「あらあら、それはゴメンなさいねー」
レディを口説くことにかけては、平尾に勝るとも劣らない鳩村だが、彼の守備範囲は、ティーンズから50代まで、だ。それより上のお姉様は敬老精神の対象だし、それより下は犯罪だ。
守備範囲外のあすかに、よけいなおべっかは無用の長物、とばかりに、鳩村は片眉をひょいとあげると、屈み込んであすかの眼を覗き込んだ。
「お嬢ちゃま、悪いおじさんに攫われないうちに、お家に帰んなさい」
『悪いおじさん』という単語に、平尾とあすかが同時に反応した。
「ハトさん!」
「あすか、悪いおじさんに殺されちゃう」
きゅっと眉根を寄せたあすかは、両の手を握り、拳を両目に当てた。
「何言ってんの、このお嬢ちゃまは」
訳が分からない、とばかりに肩を竦めた鳩村が背を伸ばして、あすかを見下ろした。
「ハトさん、この子、麻薬の取引現場を見たかもしれないんですよ」
せわしなく説明する平尾に、鳩村は、はっと笑ってみせた。
「何言ってんの、このお坊ちゃまは」
鳩村は、アメリカ仕込みのオーバーアクションで、両手を広げて天を仰いでみせた。
「何を聞いたか知らないけど、こんなliar girlの言うこと真に受けてどうすんの」
「は?」
「少年課じゃ有名な嘘つき少女なの、このお嬢ちゃまは」
「あすか、うそつきじゃないもん!」
きりっと眉を吊り上げたあすかが叫んだ。
「ほんとに見たんだもん、ほんとに悪いおじさん、見たんだもん・・・」
終わりの方は、半分泣き声のように震えていた。大きな瞳が、うるうると潤んでいる。
「あ、あすかちゃん、あすかちゃん、泣かないで、ね」
女の子に泣かれるのが何より苦手な平尾が、慌ててあすかの肩を抱いた。
「お、おじさんの顔、覚えてるかなあ?」
とりあえず、あすかを宥めるには、あすかの話に乗るのが一番だと平尾は腹を括った。
「うん」
あすかがこくんとうなずくと、また長い髪がくるんと揺れた。
「じゃあ、お兄ちゃんと一緒に悪い人の写真見てくれる?」
「うん」
あすかの顔が、ぱっと明るくなった。
「イッペイ、時間の無駄だぜ?」
あくまで水を差す鳩村に、平尾は愛想笑いをして見せた。
「まあ、聞くだけでも聞いてあげればいいじゃないですか」
「ま、好きにしろよ」
そう言い残すと、鳩村はもうすっかり興味をなくしたといった体で、すたすたと『セブン』のほうへ歩いて行った。
あすかを連れて、西部署へ逆戻りした平尾は、小会議室に前科者カードを持ち込んで、あすかに次々と見せていった。
あすかは、きゅっと眉根を寄せて真剣な面持ちで前科者カードを見ていった。一枚、また一枚とカードを繰っていくが、小さな頭を横に振るばかりだ。
「ううん、このおじさんじゃない」
最後の一枚を見終わっても、あすかが見たという『悪いおじさん』は出てこなかった。
「あすかちゃん、ほんとに見たの?」
膨大な前科者カードを繰り終えて、平尾がもう一度尋ねると、あすかはきりっと両眉を吊り上げた。
「イッペイお兄ちゃんは、あすかのこと信じてくれないの?」
「いや、信じてます、信じてますよ。でもね、もう悪いおじさんのカードないんだよ?」
また泣き出されては大変、とばかりに平尾は慌ててあすかを宥めた。宥めはしたが、前科者カードの中に、あすかが見たという『悪いおじさん』がいなかったことで、あすかの言葉を信じる気持ちが半減したのは、事実だった。
『有名な嘘つき少女なの』
鳩村の言葉が甦る。これは、少女の悪戯に一杯食わされたか、と平尾は肩を落とした。
「とにかくね、このカードの中に、あすかちゃんが見たって言う『悪いおじさん』がいないなら、探しようがないの」
「・・・そしたら、あすか、殺されちゃうよ?」
上目遣いに平尾の目を覗き込んだあすかが、つと視線を落として呟いた。
「いや、ほら、そんなに簡単に、殺したり殺されたりとかはしないから――――」
殺伐とした管内を抱える西部署の刑事としては、言っていてむなしい科白ではあったが、そうでも言ってあすかを帰すより、今の平尾に出来ることはなかった。
おびえた風情を見せるあすかの肩を叩いて、平尾は笑って見せた。
「もし怖い目にあったら、真っ直ぐお兄ちゃんのとこに逃げてくればいいよ。絶対守ってあげる」
「ホント?」
平尾の顔を見上げたあすかの顔が、ぱっと明るくなった。
「絶対だよ?――――指きり!」
差し出された細い小指に小指を絡めて、平尾はもう一度笑って見せた。
「指きりげんまん」
元気よく手を振って指切りをすると、あすかはにっこりと笑った。
「じゃあ、うちまで送ってあげる」
あすかを立たせると、平尾は鳩村のまねをして、気障にウインクをして見せた。

「ここをね、右に曲がったとこなの」
ぴょんぴょんと跳ねるようにして、あすかが歩いていく。後を着いていく平尾は、ここまで何も起こらなかったのだし、もう大丈夫だろう、と肩の力を抜ききっていた。
あすかが、数メートル先の角を右に曲がって姿を消した。途端に――――。
「きゃあ、いやっ」
甲高いあすかの悲鳴が上がった。
「どうしたの、あすかちゃん!?」
慌てた平尾は、急いで角を曲がった。角を曲がったすぐ先で、中年の男があすかの腕をつかんで引き摺って行こうとしていた。
「おい、あんた、何してるんだ!」
一瞬にして刑事の顔になった平尾が叫んだ。 はっと顔を上げた男の顔に、何か引っかかるものを感じはしたが、とにかく今はあすかを助けることが先決だ。
平尾はつかつかと男に近づくと、素早く男の腕をひねり上げた。
「イテテテテ」
苦痛に顔を歪めた男は、あすかから手を放した。
自由になったあすかは、素早く曲がって来た角の向こうへ姿を消した。
「未成年者略取誘拐未遂の現行犯だ」
警察手帳を出した平尾の言葉に顔色を変えた男が、慌てたようにもう一方の手を顔の前で振った。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。私は、あの子の父親なんです」
「え?」
思わぬ男の言葉に、ほんの一瞬平尾の手の力が緩んだ。
男は、その一瞬の隙を見逃さなかった。平尾の手を振り払うと、平尾の脛を蹴り上げて、脱兎の如く逃げ出した。
「いてて。ちょっと待て、おい。待てったら!」
何とか男の後に追いすがった平尾だったが、弁慶の泣き所を蹴り上げられているので、思うように男に追いつけない。
「あー、畜生っ!」
男が数十メートル先の角を曲がって姿を消したところで、平尾は男を追うのを諦めた。男の正体も行方も気になるところだが、攫われかけたあすかをそう長くは一人にしておけなかった。
「あすかちゃん!」
もと来た方向へ走り、角を曲がると、電柱の陰からぴょこんとあすかが頭を覗かせた。
「無事だったか」
ほっとした平尾が近づいていくと、あすかは電柱の陰から飛び出して、平尾に抱きついた。
「イッペイお兄ちゃん!」
しがみついてくるあすかの身体は、小刻みに震えていた。
「悪いおじさんは?」
震える声で問うあすかの頭を撫でて、平尾は精一杯優しい声を出した。
「もう大丈夫、逃げていっちゃったからね」
「そう」
見るからにほっとした様子のあすかは、それでも平尾から離れずに、平尾の顔を見上げてきた。
「ね。悪いおじさんがいるでしょ?」
「そうだね」
そう答えながら、平尾はこれからのことを考えていた。


2007.10.03
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