時雨 《弐》


「秀、いるかい」
訪なう声がしたかと思うと、返事も待たずに障子戸が開く。
顔を上げると、勇次の端正な姿が目に入り、秀は思わず目を逸らした。
今、一番会いたくない相手だった。胸の奥が、きりきりと軋んだ。
「何か用か」
ぼそりと呟くと、勇次が苦笑を浮かべた。
「相変わらず、愛想がねぇなあ。そんなんで商いがたち行くのかい」
上り框に腰を下ろす勇次から目を逸らしたまま、秀はむっつりと顔を顰めた。
「俺ぁ職人だ。お前ぇみてぇに、ちゃらちゃら商いしてる訳じゃねぇ」
ずけずけと言う秀に、勇次は、参ったね、と指で首筋を掻いた。
「で、何の用だ」
「ちょいと、お前ぇに、簪を作ってもらおうと思ってな」
勇次の言葉に、秀は目を眇めた。また、ちくりと胸の奥が痛む。
「今度は、どこの女に惚れたんだよ」
もう随分以前に、芸者に本気になった勇次に頼まれて、簪を作ったことがある。その時の芸者は旗本に落籍(ひか)されて、結局、勇次は珍しく袖にされてしまったが、その他にも幾つか簪を作ってやったことがある。
「そんなんじゃねぇよ」
勇次が、苦笑を浮かべた。
「俺が三味線教えてる娘が、今度水揚げなんでね。まあ、簪でも、と思ってな」
「ふぅん」
秀は作りかけの簪に目を落として、鼻を鳴らした。
勇次は、どこか上の空な秀の様子に、つと目を細めた。いつもなら、作りかけの簪を見る秀の目は真剣で、細工の出来映えを細かく見定めている。が、今の秀の目は、簪を見てはいないようだった。
「で、どんな女だよ」
「え」
秀の様子がどこかおかしいことに気を取られていた勇次は、秀の問いに虚を突かれて、ふと身動ぎをした。
ちらりと勇次に目線を投げて、秀は訝しげに目を眇めた。
「だから、その女。簪誂えるなら、その女に合った意匠がいいだろ」
「ああ、そうだな」
答えながら、勇次は様子を探るように、秀の表情を窺った。
「水揚げってぇなら、まだ若ぇか・・・姿は、どんな感じだ」
勇次の探るような目に気づいたのか、秀は一見いつも通りの笑顔を浮かべたが、勇次の目には、どこか無理に作った笑顔に見えた。
「そうだな、すらりと背が高ぇ割りに、顔はちょいと幼ぇ感じかな」
「幾つか描いた図案があるから、それでも見て・・・」
言いながら立ち上がりかけた秀が、ふらついて膝をついた。
「おい、どうした」
驚いた勇次が手を差し出すのを手で制して、秀は身体を起こした。
「何でもねぇよ・・・ちょっと仕事が立て込んで、あんまり寝てねぇんだ」
眉を寄せる勇次を見やって、秀がちらりと笑った。
その顔色の悪さに、勇次は思わず手を伸ばした。白い手の甲が、秀の頬に触れる。
突然に触れた勇次の手に、秀はびくりと身を竦ませた。
「お前ぇ、熱があるじゃねぇか」
「たいしたこたねぇよ」
勇次の手を払い退け、秀は顔を顰めた。
「心配ぇすんな。他ならぬお前ぇの頼みだ、真っ先に仕上げてやるよ」
そう言って立ち上がった秀の身体が、ぐらりと揺れた。慌てて差し伸べた勇次の腕の中に倒れ込んだ秀の身体は、熱を持ち、額が白く見えるほどに顔が青褪めていた。
眉を顰めて、暫し、腕の中でぐったりと目を閉じた秀の顔を見ていた勇次は、ふっと息を吐くと、秀の身体を床にそっと横たえた。
奥に入り、座敷の隅に畳まれた質素な布団を広げる。手早く床を延べて、秀の身体を抱え起こし、布団の上に下ろした。
半纏は脱がした方がいいだろう、と帯にかけた指がふと止まる。乱れた襟元から覗く肌に、色褪せかけてはいるが、明らかな情事の痕が見えた。
そのまま、上掛けを肩まで掛けてやり、勇次は桶を取り、井戸端に出た。
いつも騒がしい加代が、商売に出ているらしく留守であることは、秀にとっても自分にとっても、幸いなことに思えた。
冷たい水を湛えた桶を手に、部屋に戻った勇次は、懐の手拭いを取り出した。水に浸し、軽く絞った手拭いを、薄く汗の浮いた額にそっと乗せる。
苦しげに眉を寄せた秀の顔に目を落として、勇次は、また小さく息を吐いて、立ち上がった。
表に掛かった簾を潜り抜けた勇次の顔には、明らかな翳りがあった。


ふと意識を取り戻すと、長屋の中は夕暮れどきの薄闇に覆われていた。
気怠い身体を無理やりに起こすと、ぽとりと畳の上に手拭いが落ちた。見慣れぬ手拭いに目を落として、秀は無意識に襟元を掻き合わせて握り締めた。
『三味線屋・・・』
倒れた時のことを思い出し、秀の目は昏く翳った。
どこまで気づいただろう。
何もかもを見通すような、切れ長の黒く冷たい眸が脳裡に浮かび、秀は目を伏せた。


「勇さん、いるぅ」
姦しい声と共に、加代が暖簾を分けて店に入ってきた。
「どうしたんだよ。ここへ来たって、銭儲けのタネはないぜ」
勇次の言葉に、加代は大げさに顔をしかめてみせた。
「そんなことは、分かってるわよ。秀に頼まれて、これ届けにきてやったんじゃない」
ぞんざいに細長い木の箱を差し出す。受け取った勇次が蓋を取ると、見事な細工の簪が収められていた。
手に取り確かめると、細やかな細工が施された、いつも以上の出来映えだ。
勇次は、内心ほっと息を吐いた。これほどの仕事ができるなら、秀の不調もいっときのことだったのだろう。
「秀はなんで、手前ぇで持ってこねぇんだ?」
「なんでも仕事が続いてて、いちいち届けに出られないって言ってたわよ」
簪を頼みに行った時も、忙しいのだと言っていた。しばらく裏の仕事もなかったし、表の仕事に精を出しているのだろう。
「でもねぇ、最近、なんか様子がおかしいのよね、秀のやつ」
店前(たなさき)の隅に置いてある小机から、煎餅を勝手に摘み、ばりばりと音を立てながら、加代がぼやいた。
「様子がおかしい?」
眉をひそめる勇次には気づかない様子で、加代が続けた。
「なんか、ぼうっとしてるっていうか。上の空っていうか」
勇次は、ふっと苦笑を浮かべた。
「また、女に惚れたんじゃねぇのか」
「うぅん」
唸った加代が、首を傾げた。
「まぁねぇ・・・こないだも二、三日帰って来なかったしねぇ。でも、あの後よねぇ、妙におかしくなったのは」
つと黙り込んだ勇次を見て、加代は慌てて言葉を継いだ。
「まあ、ほら、あいつ時々ふらっと二、三日旅に出たりもするからさあ」
勇次は、ふっと笑みを作って、口を開いた。
「お前ぇ、こんなとこで油売ってると、銭を儲け損なうぜ」
「ああ、そうそう。おぜぜ、おぜぜ」
加代は手を伸ばして、煎餅をもう二、三取り上げると、来た時と同じように騒々しく出ていった。
す、と勇次の顔から笑みが消える。手の中の簪を見つめて、勇次は眉を寄せた。加代にも悟られるほどに様子がおかしいとは、余程のことだ。
秀が倒れてしまったため、前金も払っていない。
夜にでも、簪の代金を届けるついでに、秀の様子を見に行こう。
そう心を決めた勇次の顔が曇った。


闇も濃くなった頃、ほとほとと障子を叩く音に、秀は顔を上げた。
「秀さん、おいでになりますか」
「へえ」
秀が応えると、するりと障子戸が開いた。中に入ってきた男の顔を見て、秀の顔色が変わった。
「お前ぇ・・・」
見間違えようのある筈もない。あの時、秀を嬲り尽くした男の一人だった。
無意識に、懐に忍ばせた簪にすっと手が伸びる。
「何の用だ」
声が震えないように、力を込める。
男はにやりといやらしい笑みを浮かべて、慇懃に腰を屈めた。
「へえ、手前どもの主人が、是非にも秀さんにお越しいただきたいと申しまして、お迎えに上がりました」
秀の眸に、昏い炎が宿る。
「誰が行くか」
短く吐き捨てる。
男の目が、ちかりと鈍く光った。懐から折り畳まれた紙を取り出し、秀の前に置いた。
秀は、男を睨みつけたまま、紙に手を伸ばす。はらりと開くと、そこには目を背けたくなるような、男に嬲り尽くされる秀の恥態が、色鮮やかに描かれていた。
ぐらりと、目の前が眩む。くしゃりと紙を握り潰して、秀は男に鋭い眼を向けた。
「まだまだ、御座いますよ」
蛇のような目をして、男が言った。
胃の腑に冷たいものが滑り落ちるのを感じて、秀は身を硬くした。
「とにかくお越しいただきまして、話はそれからゆっくりと」
秀はもう一度、懐の簪を確かめて、腰を上げた。


秀の長屋から男が出てくるのを見て、勇次はすっと物陰に身を隠した。男は、お店者の形をしてはいるが、堅気には見えない。勇次は眉をひそめ、気配を消した。
灯りが消え、秀がするりと闇の中に現れた。男が先に立ち、歩き始める。
男の後をついて歩き出した秀の身体から、微かな殺気が立ち上っているのを見て、勇次はすっと眸を細めた。
長屋を出て闇の中を歩く、男と秀の背中を追う。相変わらず、秀は微かな殺気を身にまとわりつかせたままだ。
いつの間にか、根岸辺りの、寮が点在するあたりまで来ていた。
寮の一つに、男と秀の姿が消える。寮の塀に身を寄せて、勇次は中の気配を探った。


通された広い部屋は、確かに、秀が囚われ、男たちの凌辱を受けた部屋に間違いなかった。
おぞましい記憶が甦り、秀の身体は強張った。
部屋の奥に、違い棚のある立派な床の間を背にして、身形の良い男が端座していた。
その顔を見て、秀は思わず声を上げた。
「あんたは・・・」
男が、にんまりと笑った。
「扇屋の旦那・・・」
呆然と立ち尽くす秀に、扇屋治兵衛は含み笑いを漏らした。
傍らの画帖を取り上げ、中から一束の紙を取り出す。ばさりと部屋中に撒き散らされた紙には、秀のあられもない恥態のかぎりが、まざまざと描かれていた。
秀の身体が、凍りつく。
「よく描けておりましょう?」
手近な一枚を取り上げ、秀に見せつけるように掲げた。
「秀さん。秀さんを、どうでも自分の物にしたいとおっしゃる、お武家様がいらっしゃいましてね」
扇屋の言葉の意味を捉え損ない、秀の顔に戸惑いの色が浮かぶ。
「この絵を、全て買い取ってもいいと、仰せなのですよ」
「この絵を、買い取る?」
呆然と呟いた秀に、扇屋は笑いかけた。
「そう。秀さんが、そのお武家様の、まあ言うなれば、囲われ者になれば、の話ですが」
かっと頭に血が上り、秀は声を荒げた。
「ふざけるな!」
「お断りになるなら、この絵は、そうですね、あぶな絵として好事家に売りましょうか。多いのですよ、こういう物を好む方は」
扇屋が、くつくつと笑った。
「きっと評判になりましょう。なにせ、秀さんはなかなかに美しいですから」
扇屋はそう言って笑うと、手にしていた絵を投げ捨てた。絵は、ひらりと秀の足元に落ちた。
すっ、と秀の眸が細くなり、身体から殺気が立ち上る。
敏捷に扇屋に飛びかかり、背後に立つと、簪をかざした。
「おやおや。秀さんは、もしや噂に聞く仕事人でしたか」
扇屋は顔色も変えず、面白がるような声を上げた。
がらりと唐紙を引き開けて、男たちが踏み入ってくる。どの顔にも、見覚えがあった。簪の切っ先が揺れた。
男たちが一斉に秀に躍りかかろうとした時、きりきりと糸の音が響き、灯りがふつふつと消えた。
「秀!こっちだ」
障子を突き破り、庭に飛び出した秀は、腕を掴まれ、引き摺られるように走り出した。
植木や庭石の影を辿るように走り、潜り戸から外へ逃れ出る。
常夜灯の仄かな灯りに、端正な横顔が浮かび上がった。
「三味線屋・・・」
腕を掴んだままの勇次の手を振り払い、睨みつける。
「何故、ここにいる」
低く問いかける秀の声に、勇次の眸に冷たい光が閃いた。
「お前ぇ、あれは仕事か」
秀の視線がゆらりと揺れた。
「・・・そうだ。俺の仕事だ」
「一人で、仕事を受けたのか」
勇次の抑えた声に、凄みが加わる。
秀が、きっ、と勇次の眸を睨みつけた。
「俺だけの仕事だ。お前ぇらには、関わりがねぇ」
「一人で仕事を受けるのは、仲間の筋に外れるぜ」
冷たい眸にひたと見つめられて、秀はつと目を逸らした。
いつの間にか降り出した時雨が、二人を包み込む。切り放しの髪を伝い落ちた滴が、秀の頬を濡らした。
「これは、俺の仕事だ。もう、邪魔をしねぇでくれ」
そう言うと秀は身を翻して、闇の中に姿を消した。
[続]


2015.11.08

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