触れもせで 〜続・唇〜 《壱》


出稽古の帰り、川沿いの道を歩いていた勇次は、河原で写生をしている秀の姿を見つけて、笑みを浮かべた。
声を掛けようとした時、秀の傍に若い娘が駆け寄るのが見えた。
秀の顔なじみらしい娘は、上気した顔で何やら秀に盛んに話しかけている。
遠目には可愛らしい恋人同士に見える二人を見て、勇次はふっと息を吐いた。
秀には、ああいう娘が似合いだ。
そう、自分などよりも。
勇次は、つと目を伏せ、そのまま歩き去ろうとした。
その時、ふと土手を振り仰いだ秀が、勇次の姿を認めて、笑顔を見せた。
「勇次」
傍らの娘に何か言い置いて、土手を駆け上ってくる。
「出稽古か?」
「ああ、今帰ぇりだ」
「そっか」
秀は、嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「じゃ、ちょっと待っててくれよ。今、片付けてくるからよ」
勇次は、少し戸惑った。
「いいのかい」
「ちょうど腹も減ったし、そろそろ上がろうと思ってたんだ」
屈託無く笑う秀に、勇次は目顔で河原の娘を指した。
「いいのかい」
「え」
秀は、一瞬ぽかんとした表情になり、それから、また屈託のない笑顔を浮かべた。
「あの子は、その先の茶店の子だよ。そろそろ腹が減ったろうって、店に誘いに来てくれたんだ」
「秀さあん、あたし、そろそろお店に戻るねえ」
こちらの話が聞こえていたかのように、折良く娘が声を張り上げた。
「ああ。また今度行くよ」
秀も声を張り、答える。
そんな秀を見て、勇次はふっとため息を吐いた。
どう見ても、娘は秀に好意を持っているが、秀はそのことに気づいていないようだった。
秀のそういうところが可愛く、心惹かれた所以なのだが、どこか娘が哀れに思える。
「じゃあ、ちょっと待っててくれよな」
そう言い置くと、秀は河原に下りて行き、画帳やら何やらを手早くまとめて、また土手を駆け上ってきた。
勇次が思わず差し伸べた手を、一瞬戸惑った顔をした秀は、照れたような顔をして掴んだ。
秀は、身軽く土手上の道に上がると、ぱっと手を離して、勇次を促した。
「じゃ、行こうぜ」
二人は、肩を並べて歩き出した。
「ちょいと歩くがこの向こうに、旨いぜんざいを出すって茶店があるんだ」
勇次の言葉に、秀は戸惑った。
「けど、お前ぇ、甘ぇもんはあんまり好きじゃねぇだろ」
勇次は、少し目を丸くし、次の瞬間悪戯っぽく微笑んだ。
「ああ、まあな。けど、お前ぇは好きだろ」
秀は、胸がほんのりと温かくなった。
「お前ぇ、知ってたのか」
照れ臭さを隠して、問いかける。
勇次が、くすりと笑った。
「お前ぇだって、知ってたじゃねぇか、俺が甘ぇもの苦手なの」
あ、と秀は小さく声を漏らし、さっと頬を染めた。
互いに想いを秘めたまま、長く時を過ごしてきた。
その間には、いろいろなことがあり、ようやく想いが通じあったのは、つい最近のことだ。
「けど、そんな茶店、よく知ってたな」
秀の言葉に、勇次は屈託無く笑った。
「三味線教えてる娘に、誘われたことがあるんだよ」
秀は、胸の奥がチクリと痛むのを感じた。
「そん時ゃ、丁重にお断りしたんだがな、そのうち、お前ぇと行こうと思って覚えておいたんだよ」
「え」
勇次の言葉に、秀は泣きたいような心持ちがした。
そんな秀の様子に気づいたか、勇次は秀の耳元に口を近づけた。
「泣くんじゃねぇよ」
「ばっ、泣く訳ねぇだろっ」
頬を赤らめた秀を見て、勇次は声をあげて笑った。


「これ、ほんとに美味ぇや」
秀は、ぜんざいの碗を持ち、嬉しそうに箸を動かした。
一方、勇次の方は一口二口食べると、箸も碗も置いてしまう。
少し眉根を寄せて、辟易したかのような勇次の顔を見て、秀が面白そうに笑った。
「そんなに嫌なら、初めから食わなきゃいいのに」
くすくすと笑いながら、自分の分を食べ終えた秀に、勇次が食べさしの碗を押しやった。
「だったら、お前ぇが食べなよ」
「へぇへぇ」
口だけは嫌そうに、秀は、嬉しそうに碗を取り上げた。
「なんでぇ、野郎二人でぜんざいかぁ」
聞き慣れた間延びした声に、勇次と秀は、はっと身を強張らせた。
そんな様子を気に留めるでもなく、主水は秀の隣に腰を下ろした。
「俺にも奢ってくれよ」
秀が、嫌そうに腰を僅かにずらした。
勇次が、眉を顰めて主水を睨みつける。
「そう睨むなよ、色男」
主水は、勇次を見やってにやにやと笑うと、秀の傍らの湯呑みを取り上げ、音を立てて茶を啜った。
「もう、こいつにゃ、ちょっかいかけちゃいねぇよ」
勇次は、主水のとぼけた顔を暫し睨めつけてから、ちらりと秀を見やった。
秀は、勇次の目を見て、小さく頷いた。
もう一度、主水の顔を睨めつけて、勇次は懐から紙入れを取り出した。
「ここ置くよ」
店の奥の小女に声をかけて、二人分の代金だけを緋毛氈の上に置くと、秀を目顔で促して立ち上がる。
「それじゃ、旦那、ごゆっくり」
勇次は、そつのない『表の顔』で笑みを浮かべると、軽く頭を下げて見せた。
秀は傍らの画帳を取り上げると、そのまま歩き出した勇次を追うように立ち上がった。
秀は、少し俯いて勇次と肩を並べた。
主水との長く昏い爛れた関係を断ち切ることができたのは、ごく最近のことだ。
まだ、全てを忘れ切ることはできない。
「勇次、俺は・・・」
「もう、忘れろ」
秀の言葉を遮ると、勇次は秀の肩を抱いた。
「忘れちまいなよ」
秀は、無言でこくりと頷いた。
[続]



2017.7.29

[Story][弐]