BAD COMUNICATION



by 義府祥子様


鵜飼遊佑の方から口火を切った。
「もう、役立たずってわけだ。」
言いにくい言葉を、わざと選んだ。
「これ以上ここにおいても、こいつに仕事を任せられない、それなら前の事件にかこつけて外に出してしまえ、そんなところでしょう?」
署長の様子を斜めに窺う。
人事の件で話しがある、朝、そう聞いたときから覚悟はできていた。今さら悲劇を気取る気はない。鵜飼にはワルぶる方がなれていた。
もともとドロップアウト三昧の人生だ。ここで踏ん張ったって、どうせろくなことになりやしない。
――右手が震える。
それに気がついたのは半年前だ。
普段の生活では何の支障もない。食事も、着替えも、不自由を感じていない。
ただ、職務上の特別な機会は違った。
狙いを定めて集中するほどに揺れの大きくなる痙攣は、鵜飼の狙撃手としての運命を明らかに狂わせていた。今までは全国の射撃大会で入賞する実績を持っていただけに、それは致命的な障害だった。鵜飼の唯一の牙城が、もろく崩れ去る。ここ数ヶ月、規定射撃訓練の結果が、衰えを雄弁に物語った。
「企図振戦、病気ですらありません。医者に言わせると、年をとったせいで若い頃の酒のつけがでた、らしいです。薬とかでなんとかなるもんでもない。要するに治る見込みもなし、です。」
今では構えて撃つよりも、背中越しに逆さから気まぐれに発した弾の方が正確なくらいの命中率で、このまま本庁の捜査一課に残るわけにはいかない。鵜飼自身にもよくわかっていた。むしろ40過ぎまでここでやっていられただけ、御の字というものだ。
おまけにあの事件だ。
極竜会がらみでおこった騒動――当時付き合っていた女性を拉致されて取り戻すために、鵜飼は組本部に乗り込んだ。組長の香田に全治3ヶ月、幹部である高月に全治2ヶ月の怪我を負わせた件は、新聞沙汰こそさけられたものの、鵜飼一個人の問題として処理されている。となると、なんらかの形で責任をとらなければいけない。
答えは自ずと見えていた。
「用なしには、用なしの生き方がありますよ。」
鵜飼はにやりと笑った。
「次に行くところでは、少しゆっくりさせてください。」
西新宿署、刑事課、警部補に任命する旨の異動通知を受け取ったのは、それから一週間もたたないうちだった。

基本的に平和だね、この頃は。
鵜飼はサングラスを頭の上に押し上げた。
若者のちょろい犯罪が多いわりに、根が甘い。
ま、甘いものは好物だけどな。
西新宿署の仲間とけんか別れして、一人で六本木まで流れてきた。この辺りの鳥居坂署が人手不足のせいか、応援を頼まれることが多かったので、地理には明るい。廃アパートの屋上に上り、煙草に火をつける。ゆっくりと煙を吐き出した。
夕暮れが雑踏を紫に染めていく時間だ。見る間にちらほらと灯りが点り始める。
管内パトロールと称した散歩の途中で見つけた隠れ場所だった。いつも風が吹いていて、たかが三階建ての上からでも、辺りが見まわせる。
凪みたいな毎日。
自分の分だけ適当に仕事をやって、他人さまの領域まで手出しせずにいた方がこんなに順風に乗れる。
噂によると本庁は相変わらずがたがたやっていて、坂井がへまをしただの、吉国が今度こそやばいだの言っているが、そんなことかまやしない。
西新宿署の連中とはそりがあわないし、そろそろ次の赴任地に鳥居坂署を希望するかな。今さら銃使うこともないんだから、街中のちっぽけな事件に関わっている方がいいや。
冷たいほどに自由。血も流れない平穏に日々が行き過ぎる。
もう、それでいいんだ。
長いままの煙草を落とす。
何も望まずにただ生きていれば、いつか死んでいける。食って寝て走って、食って寝て走って。繰り返し、繰り返しの日々。
死ぬときは、なるべくころっと逝きたいね。
足で朱い名残を踏み潰した。
鵜飼は小さくため息をつく。
これは余生だからな。たとえその先にお宝が待っていようとも、嵐と立ち向かうのはもうごめんだ。
吹き付ける風が、思い出したように寒い。
帰るか・・・。
あてはなかったが、そう決めて踵を返したとき、眼下の人影が目に入った。
誰だ、あいつ。 階段を降りていく自分と、このまま行けば踊り場でぶつかる、浅黒い長身の男。
すかした背広でめかしこんで、いやに鋭い目つきをしている。
その目で自分を舐めまわすように見上げているのが、鵜飼の気に障った。
この時間にこんな場所に来ること自体、おかしい。
例の件の刺客か? 身のこなしから、懐に銃器はないことが見て取れたが、一応身構える。
俺をつけてきたそこいらの三下なのか。
いや。
やはり昔、高月の事務所で見たような・・・?
それならむしろ、思い出さないほうが身のためだ。
決め込んで意識的に足を速め、行きすぎようとした。
「鵜飼さん?」
すれ違いざま声をかけられて、無視しようとした腕をしっかりと掴まれた。
思いのほか強い力で引き寄せられる・・・、キスで唇を塞がれていた。
何?
予期せぬ出来事に抵抗を忘れた瞬間、背中に鋭い刺激が走る。
刺された痛みに近いが、生臭い血の匂いはしない。
銃の早抜きのように目にも止まらぬスピードで、ポケットから出された男の左手に小さな箱型の機械が握られていた。
しまった。スタンガン持っていやがったのか。
不意打ちにだまされた自分を悔やみながら、鵜飼の意識はゆっくりと闇に下った。

ケイ・スヨン、愛したという言葉を使っていいのかはわからない。ただ、今も記憶に鮮やかに残っているその女性と出会ったのは、五年前のことだった。
銃の腕こそ確かだったが、昔も今も鵜飼はけして熱血系の刑事ではない。その日もいつも通りただ、所轄内をぶらぶらと流していた。
職務質問をかけるような不審者には、幸いで出くわさずにすんだ。
午後を過ぎて、急な雨になる。
今日一日快晴のはずが、天気予報もたいがい当たらないな、と愚痴りながら逃げ込んだ先の喫茶店に、彼女がいた。
ぬれねずみの鵜飼に笑い転げながら、タオルを差し出す。当店の自慢のデザートの説明をする大きな目の愛くるしい表情に、ついひきこまれてしまった。
肝心なときに口下手な自分が、どうやって口説いたのかは、もうよく覚えていない。
それまで、特定の誰かと付き合うことを避けてきた鵜飼にとって初めてと言ってもいい絆が、いつのまにか結ばれた。
食事をし、買い物に付き合い、地元の浅草や巣鴨を案内した。幾つかの夜をともに過ごす仲になる。早い春を迎える頃、赤ん坊ができたと知らされた。
迷惑をかけるから本国に帰る、というスヨンをひきとめ、小さなアパートを借りる。
やがて、冬に生まれた娘にヨジンと名をつけた。
まるでドラマの1ページのように、つかの間の幸せな生活だった。
日本国籍のない二人は、決められた期間のうちに移民管理局に何度も手続きをしにいかなければならない。
そこはいつも込み合っていて、幼いヨジンは人ごみでむずかり、スヨンと鵜飼を困らせた。
こんなにたくさんの異国の人間がこの街に紛れて暮らしているのか、一緒に行くたびに鵜飼は驚いた。
早いとこ戸籍を入れなくては、と思う反面、鵜飼の実家は強硬にスヨンとの婚姻を反対した。たとえ跡継ぎではなく、家を出ているとはいえ、老舗の仏壇屋である鵜飼の父には、どうしても在日としてのスヨンを受け入れられなかったらしい。会おうともせず、けして認めなかった。
いつかなんとか、考えているうちに、ずるずると三年もたってしまった。
もうすぐヨジンも、物心つく年になる。その前にことを決めなければ。
新しい年明け、鵜飼は決意を固めようとしていた。
そして、例の事件がおこった。 奴らがどうやってスヨンとヨジンの存在をかぎつけたのか・・・、あえて隠そうとしない自分が愚かだったのか。
スヨンは心身に傷を負い、鵜飼にとって、後悔だけが残った。
鵜飼の元にはもう戻らない、スヨンは言った。 振り向かない背中を見つめながら、スヨンの決心を変えさせることは、鵜飼にはできなかった。必ず俺が守るから、と言えなかった。
鵜飼の心の奥に、深く傷は潜んだ。
・・・初めから、なにもなかったことにしよう。
女なんて面倒くさいだけだ。子どもなんて、責任を負わされるだけ。ずっと、独り。それが一番気楽で、一番似合うのだから。
もう、かけがえのないものを失うのは、いやだった。

夢を見ていた。
胸が詰まるような息苦しい記憶をまといながら、鵜飼は肝心の夢の内容を思い出せずに首を振った。
手首が痛い。
気がつくと、ベッドの上に寝かされていた。
・・・お約束、てやつだな。
薄目を開けて、おそるおそる周りの状況をうかがう。
ベッドのスチールパイプに手錠がくくりつけられ、頭の上で両腕が拘束されている。
四角い部屋はホテルか、マンションの一室だろうか。こざっぱりとしてサイドテーブルや椅子のほかに目立った家具はない。
室内は明るく照らされており、窓には厚いカーテンがかかっていた。
ぼんやり頭を巡らせてみるが、どこだかまるで見当もつかない。
連れ込まれた状況を思い返してみる。
キスされたんだよな・・・。
あの男。冷たいまなざしが甦る。
名前も知らないが、自分をここに拉致した張本人で間違いない。
なんの情報がほしいんだ?
最近関わった事件にろくなものはない。今さらやくざが欲しがるようなネタは思い浮かばなかった。
もしかしてこういう展開だと、俺の貞操の危機なわけ?
鵜飼は浮かんできたストーリーを否定した。
絶世の美女ならともかく、こんなむさいおやじを捕まえて何をしようっていうのか。
マニアもいるっていうが、ぞっとしないね。
先行きを思い浮かべて、背筋に寒気が走った。そして寒気とともに、身体の底になんとも甘美な感覚が浮かぶのを慌てて打ち消した。
なんなんだ、今のは。
俺、そういう趣味ないはずだけどなぁ。
情報屋の中には奇妙な風体をしたものも多かったし、その手の種族がいることを知識として知らないわけではなかった。それでも別の世界、と思っていたものだ。目の前に迫っている危機に、怯えながら魅惑されている。
このまま流されれば、とんでもない姿を見せてしまいそうだった。
なんとか、勘弁してもらえませんかね。
自分の中に潜むもう一つの色欲を否定し、あれこれ迷っている間に扉が開いた。

「お目覚めですか、鵜飼さん。ご気分はいかがです?」
男の声はよく響いた。
鵜飼の服の下まで貫くような目を向ける。
ねぶるような視線で、背中に電流が走った。
「最悪だよ。」
今さら狸寝入りするわけにもいかず、ふてくされたように顔をにらみつける。
「そんな目をされると、かえって嗜虐心をそそられますね。」
男はさらりと流した。
「てめぇ、どこの組のもんだ。」
底冷えする瞳をはね返しながら、鵜飼はなおも虚勢をはる。
「言わなくても見当はついてるんじゃないですか。高月さんのところで随分大立ち回りをやってくれたそうですから、貴方を狙っていたのは一人二人じゃないでしょう。」
確かに心当たりは、ありすぎるほどにあった。
だが、常に尾けていた奴らのうちの一人は先日軽犯罪で挙げ、もう一人はすぐにまけるばかな手合いだった。後の残りは面白半分に覗き見ていた連中ばかりのはずだ。
こんな風にご招待を受ける謂れはなかった。
鵜飼が不審な表情を浮かべるのを見て、男は含み笑いをもらす。
「わからないようですね。」
ゆっくりした足取りで、近づいてくる。
男の指が鵜飼の頤にかかった。
「私の目的は、貴方自身を手に入れることです。」
鼓動が速くなる。
それが不安なのか、あるいは期待なのか、自分でもわからなかった。
「鵜飼さん、男とSEXしたことはありますか。」
低い声で囁いた。
下唇の線をそっと丁寧になぞる。
こいつの狙いは本当に、俺の身体なのか?
「気持ち悪いこと言うな。」
鵜飼が頭を振って怒鳴った。がむしゃらに振り回した足が宙を切る。
反対にむずむずした感覚が、胸の底から這い上がった。
信じられない・・・、何を望んでいるんだ、俺は。
こんなのなら、殴られたり蹴られたりする方がましだと思った。
真意は別にあるはずだ。 なぜそれを明かさないんだ。
「本当に気持ち悪いのかどうか、今、試させてあげますよ。」
宣戦布告に、鵜飼は声にだせない叫びをあげた。
男の左手が、器用に鵜飼のネクタイをゆるめ始める。
「ああ、初めから楽しんでいただける素質はあると思いましたが、念のために少し薬を盛らせていただきました。どうぞ、存分に抵抗してください。」
男は薄く笑った。

見られている・・・。
ただそれだけなのに、身体が火照った。
ボタンを一つ一つ外して、ワイシャツを剥がれた。右から靴下を片足ずつ、次にズボンを引き抜かれる。下着に手がかかった。男の手は栗の皮を剥くように正確に鵜飼を丸裸にしていく。
研ぎ澄まされたナイフさながらの爪先が、普段陽にさらされることのない部分の肌をするりとなでた。
「きれいですね。」
滑らかな皮膚に指をすべらせて、男はつぶやいた。
「思った通りだ。」
「うるせぇ、この変態。」
耳が赤くなる。
声が乱れた。
「では、その変態に見られて悦んでいるのは誰ですか。」
なんでこんなことで・・・。 確かに、感じていた。まだ触れられてもいないのに、鵜飼の局所は欲望をさらけ出していた。
自由を奪われて、ベッドの上で服を脱がされただけ。
たいしたことじゃない。 鵜飼は必死で自分を押しとどめる。
それなのに、目を瞑っても男の顔がちらついて消えない。
その瞳に、隅々まで弄られているような気持ちになった。
情欲の火が奥からじわじわとくすぶりだす。
「あ。」
不意に太ももをなぞられて、うかつにも声が出た。
この野郎、何を打ちやがった。
もう雄として、俺の身体がそんなにさかるわけがないのに・・・。
再び目を開いて男の顔を見据える。
「潤んだ瞳が、本当に色っぽい。」
男はうっとりとした口調で言った。
聞こえてくる声まで、耳の粘膜に与えられる愛撫のようだった。
「犯るんなら、とっとと犯ればいい。」
鵜飼ははき捨てる。
「とんでもない。」
上腕の内側をわきの下まで、辿りながら男は残酷に告げた。
「貴方が欲しがってくれるまで、待ちますとも。」
鵜飼の上に絶望が降り注いだ。

快感というよりも、苦痛に近かった。
最初はまるで戯れのように、フェザータッチでくすぐった。
次第に指が深く、しつこく鵜飼を貪る。息が、舌が攻め立てる。
あらゆる部分に優しく触れては離れる動きから、鵜飼は身をよじって逃れようとした。淫蕩に反応する身体を持て余す。
耳元に息がかかり、男の柔らかく濡れた舌が首筋を舐めあげた。
喉の奥からこらえきれない呻きがもれる。
追い詰められていく鵜飼をことさらに楽しむかのように、男の動きは緩慢だった。
「もう少し、ギブアップしないでくださいね。」
声に余裕があった。 朱に染まった鵜飼の眦を、人差し指で刷きながら言う。
「こんなうぶな身体を楽しませてもらえるなんて、またとない機会ですから。」
濡れたまぶたに唇を寄せた。
胸の突起が曖昧にひっかかれる。
馬乗りになって脚の付け根に割り込んだ膝頭が、鵜飼自身を浅く擦った。
・・・もっと、・・・もっと強い刺激が。
言えない唇の端から、涎が流れた。
「はしたない。」
男の人差し指がこぼれた滴りを掬う。
軽く開いた口の中で、紅いつぼみが揺れ動いた。
「そろそろ悦くして、あげましょうか?」
悪魔の囁きだった。
頷いたら、このままこいつに飲み込まれる。それは鵜飼にもわかった。
誰が、お前なんかに。
強がるはずの科白が出てこない。 自分の甘く掠れた吐息と、布の擦れる音が派手に響く。
「・・・欲しい。」
とうとう、言葉に出してしまった。

あっけなく白濁を吐き出した前が、与えられる刺激にまたぞろ頭をもたげる。
後ろの入り口をリズミカルに叩いていた指が、内に入った。
鵜飼自身の汗と粘液と、まとったクリームのせいで、驚くほど滑らかな侵入だった。
指は奥をかき回す。
瞬く間に秘密を暴きたて、頑な一点を弄び始めた。
動くたびに、鵜飼の身体が弾かれたギターの弦のように震えた。
「そんなに感じるんですか?」
喘ぐのでは足りなくて、嗚咽をもらす鵜飼の顎を男の手が掴んだ。
「男に嬲られるのが初めてとは思えませんね。本当に、貴方の身体は淫乱だ。」
言い返すことも、顔を見上げることもできなかった。
こんな喜悦を求める自分がいたのを、今まで知らない。
違う、これは俺じゃない。
中毒症状に惑わされているだけだ。
鵜飼の理性のかけらが最後の抵抗を試みる。
しかしここまできて、プライドでさえ陥落は時間の問題に思われた。
「貴方は快楽に逆らうことが、できない。」
小刻みに揺れていた腰から、指が抜き去られる。
一瞬力を抜いた隙で、代わりの恐ろしいほど猛り立った凶器が、鵜飼を支配した。
ネクタイさえゆるめずに、下半身をはだけさせた男が鵜飼に襲い掛かる。
局所から身体が、散り散りに切り裂かれていく。息を継ぐ暇もない。
鵜飼の眉間に鋭い稲妻が落ちてくる感覚がした。
「思った通りに・・・素敵だ。」
男が頬をそろりと撫でる。
抱えあげられた両足が、空気を蹴ってもがいた。
男の律動が、なけなしの意識を奪い去っていく。
考えられず、いつしか本能の命じるままに嬌声を上げた。
墜ちていく・・・。 薄目を開けた鵜飼の前には、地獄が口を開けて待っているのが見えた。

十年も前になります。
あの頃は私もまだ、この世界に顔をつっこんだばかりのほんの下っ端でした。
今?今ももちろんそうです。中間管理職クラスですね。
上に上がれば上がるほど、命が幾つあってもたりませんから、このあたりがちょうどいいんです。
当時勤めていたのが、中興商事という、まあ株式会社をきどった名前ですが実質はかなり程度の低い組でした。
ハリウッドかぶれのやくざ、といいますか、仕事が大きすぎるんです。
最近じゃ薬を上手にまわして、東南アジアの女の子の店を二つ三つ持つだけで、十分甘い汁が吸えるんですよ。
なにも億の金を一度に稼ごうとすることはない。それを・・・。
思えば、組がつぶれたのは、そのばかな計画のせいでしたね。
ダイナマイトを強奪、強力な爆弾を製造して新宿の地下街に仕掛ける。
それを爆破すると脅すのと引き換えに金を要求するなんて、近頃じゃ現実離れしすぎてテレビドラマにもなりませんよ。
・・・もちろん、失敗しました。うまくいくわけありません。
警察もばかでしたから、途中まではそれなりにやれてたんですがね。
松田猛、西部署のあの刑事のおかげで幹部連中は取引の場で全員死亡です。
全員残らず。かなり派手でしょう?
私は下っ端だったから、こうして生き延びているというわけです。
実際、取り引きには行ったんですが、後方待機だったせいで逃げられたんです。
まあ見捨てて逃げた、と言ってもいいですよ。あのまま巻き込まれるのはまっぴらでしたからね。
遠くで、星川がマンホールに仕掛けた爆弾が破裂する煙を見ていました。
壮絶だったな。
後からあの下で、松田さんが死んだんだと知りました。
中興商事に一人で乗り込んできた松田さんは、ぎらぎらしていて・・・、以前から顔を覚えていたんでね。
何があの人を駆り立てていたのか、今はもうわかりません。
ただ、あんなふうに中途半端に彷徨っている彼が、妙に気になって、よく覚えていたんです。
恋愛・・・そんな甘い言葉で呼べる感情とは思えません。男も女も関係ない。強いて言うなら妄想です。
あれからになります。
松田さんの目が忘れられなかった。
どこにも?まらない瞳を、自分のものにしたかった。
手に入らないと思うせいでしょうか。
執念にとり憑かれてしまいまして、彼と同じ目をした刑事をずっと探していました。
一種のfetishismに近いですね。
この十年間、ずっと。
だから鵜飼さんを見つけたときに、むしろ懐かしい気がしました。
やっと会えた、そんな感じです。
Crazy?ほめ言葉として受け取っておきましょう。

戒めは外されていた。
身体に散った汚れが拭き清められており、素肌の上に丁寧に毛布がかけられている。寒さを感じないのは、空調が効いているせいだろう。
「おはようございます。」
鵜飼の表情が動いたのを確認して、男が言った。
アパートの階段で行き違ったときと同じように、男はブランドもののスーツで身を固め、一分のすきもなかった。
いつからそうしているのか、枕元で椅子に腰掛け、鵜飼の寝顔を眺めていたようだ。
声を出すのも億劫で、鵜飼は目だけを動かして男を見る。何度達かされたか、覚えていない。思い出そうとすると、頭の芯が霞んでしまう。
「夜が終わってしまうのが、名残惜しかったですね。」
男の指がゆっくりと、鵜飼の短い髪を梳いた。
まるで恋人同士の囁きのように甘い声だった。
邪険に首を振ろうとしたが、全身は重い鉛に変わってしまったのかのごとく、鵜飼の意思に反し、ぴくりとも動かない。
いつもの毒舌を吐くには、叫びすぎた喉が嗄れていた。
諦めて目を閉じようとした時、
「権藤。」
突然音をたてて扉が開いた。
男は表情を変えずに闖入者を振り返る。
現れた顔に見覚えがあった。
・・・高月だ。じゃあ、やっぱりこいつは。
煙草の煙を勢いよく吐き出しながら、高月が鵜飼の方に向き直る。
極竜会のナンバー2の頬には、二月前に鵜飼のつけた傷がまだ生々しく残っていた。
「随分と可愛がられたようだな、鵜飼さん。おかげでいいビデオが撮れた。しかし、思いのほか色っぽい声を出してくれるもんだな。」
ビデオ?
鵜飼は息をとめる。思わず見渡した頭の上に、こちらを凝視している高角レンズがあった。
なにもかも生中継されてた、てわけか。
にやりとした高月が、いやらしく言い捨てる。
「俺までその気になるくらいに、そそられちまったよ。」
立ったまま鵜飼を見下ろす双眸が、冷たくぬめった光を放つ。
「本当ならこのままコンクリ詰めにして、東京湾に捨てちまってもいいんだ。あんたにはずいぶん暴れてもらった。おかげでこのざまだ。」
歌うような口調で紅い跡を示して、高月は続ける。
どこか他人事に聞きながらも、鵜飼の体温がすっと下がった。
「薬漬けにしてから、どこかの好きものの組長に売り飛ばすのもビジネスになるな。元刑事のSEX-DOLL、てやつだ。もちろん、こっちにも控えをもらっておく。」
内ポケットから鈍く光る小刀を取り出す。
ひらひらとかざす姿は、スクリーンに映るやくざのようだった。
は。今どきの約束手形は小指かい。笑わせるぜ。
その後のことを考えれば、あれだけの悪夢の続きで指の一本や二本、どうでもいい気がした。
どうせ、泣こうが喚こうが、どうなるもんじゃない。
投げ遣りな気持ちで、鵜飼は口をつぐんで語らなかった。
痛みを感じる神経さえも、麻痺しているのではないかと思えた。
「だが生憎と、うちの事務屋と取引しちまってな。」
高月はこれみよがしに、ナイフを懐にしまった。
「こいつが。」
権藤をかるく顎で示す。
「事務屋の命である自分の指と引き換えにしてでも、あんたを欲しいらしい。」
自分のことが話しにでていることなど気にもとめずに、座ったままの姿勢を崩さずにあくまで穏やかに、権藤は微笑んでいた。
「パソコン打てなくなるから、俺が指はやめとけって言ったんだよ。そしたら、幹部バッチもいらない、ときた。」
鵜飼は言葉を失って、探るように男を見た。
「けっこう有能な事務屋でね。うちとしちゃ、大事なタマだ。」
こいつ、頭がおかしいのか?
疑問符が何重にも渦を巻いた。
わからない。なに考えてるんだ。
なんで俺に、そんなにこだわるんだ。
俺のことなんて、何も知らないはずなのに。
――昨日、初めて出会った。ただ、狂ったように抱きあって一夜を過ごしただけだ。それも男から一方的に、無理矢理結ばされた関係。
ただ、それだけなのに。それだけのことなのに、なぜこの男は俺を欲しがるのだろう。
「何故・・・。」
問いがこぼれた。
まさか、惚れたとかはれたとか言うわけじゃあるまい。
一体、何が。
無言のまま権藤のしなやかな指が、鵜飼の唇をなぞる。
見つめながら声をたてずに、口元を歪ませた。夕べ、ベッドで見た笑いを思い起こさせた。
身体を繋ぐことに、なんの意味もない。
いつでも誰とでも、契ることなんて簡単にできる。
ほんの一瞬の快感。刹那の情痴。
けれどこの男は、そうやって少しずつ俺を狂わせようとしている。
ゆっくりと権藤が言葉を吐いた。
「貴方はあぶない人だから、とても放ってはおけない。」
相変わらず、冷たい口調が耳を嬲る。
「私が最後まで処理してあげます。」
高月は半分あきれたように権藤を見遣った。
「まあ、きれる奴だがこいつのことはよくわからん。商売柄うちの若い女もずいぶん抱かせたが、気に入ったのはいなかったようだ。」
両手を大げさにあげる。 権藤は目を伏せた。
「10代、20代の娘はやわらかすぎて落ち着きません。30女はしまりがない。寝るならやっぱり鵜飼さんのように、芯のある身体がいいですね。」
「アルデンテのパスタみたいなもんかい。」
からかうように合いの手が入った。
鵜飼にはもう、先が見えなかった。
「ビデオは、あくまで私の趣味です。闇でばらまくつもりはありません。」
低い声が響く。
「身も心も。」
権藤は、酷く優しい顔をして鵜飼に告げた。
「貴方をすべて奪って、捨てますから。」

一週間後、鵜飼は極竜会の一室にいた。京王プラザ近くの路上での拳銃発砲事件で、組関係をあたる必要があったのだ。まだ、犯人は捕まっていない。大規模な国際学会が近いとかで、本庁はけりをつけろと大騒ぎだった。
「あんたか・・・。」
出てきた相手に、大げさに顔をしかめる。
ダークスーツに身を包んで、権藤はなにくわぬ表情だった。
「会いに来てくださったんじゃ、ないんですか。」
さりげなくソファーの隣に座り、煙草を取り出しながら権藤がつぶやいた。
「けっ。冗談言ってないで、早く、銃ぶっ放した奴、つれて来い。」
もちろん、権藤がいるかもしれないという気はした。
半分以上、再会を期待していたのかもしれない。
声で緊張を読まれないように、乱暴に言う。
「鵜飼さんのお願いならば、叶えてあげてもいいですよ。」
権藤はトーンを変えずに応えた。
周りを取り囲むちんぴらに、外に出て行くように目で促す。部屋の中に、鵜飼と権藤の二人だけが残された。
冷たい汗がつたう。
「でもそのかわり、私の望みも聞いてもらいたいですね。」
指が、さわさわと蟲が這うように服越しに鵜飼の太ももを愛撫し始めた。鵜飼の心が波だつ。
駄目だ。呑まれる・・・。
振り払おうした途端に、権藤の右手が鵜飼の首筋を捉えた。
「忘れられないのでしょう?」
触れられた場所から火が点いたように、身体が熱くなっていく。
「私に乱してもらいたかった。」
「違う。」
ようやく出した言葉を、権藤はあざ笑った。
「違いませんよ。あの夜本当は、貴方に怪しい薬など使っていないんです。ほんのわずかにアルコールを盛っただけ。貴方はただ、状況と私に酔わされたんです。それであれだけ達けるんだから、たいしたものだ。」
目の前が暗くなる。
あれが、俺の本心?
・・・違う。
「貴方は、誰かに滅茶苦茶にされたかったんです。こんな平和に暮らしながら、本当は不穏に巻き込まれたかった。日常の中で、狂わされてしまいたかった。そして・・・。」
「やめろ。」
最後まで聞かずに鵜飼は遮った。
唇が震える。 足に力が入らず、立ち上がれなかった。
「教えてあげますよ。」
上半身が、無抵抗の鵜飼にかぶさる。
「貴方が本当に欲しいもの。」
権藤の腕が背中にまわった。首筋に口付けが落ちる。
貴方自身ではけしてわからないですよ、声を聞きながら、鵜飼はいつしか目を閉じた。

タール控えめに切り替えながらも、結局手放せない煙草をふかした。
何気なく天を見上げる。
今日は空が青い。季節が変わる気配を感じさせた。
鵜飼は、初めて権藤と会った廃アパートの跡地をうろついていた。
希望通りの転勤が聞き入れられ、西新宿署から鳥居坂署に移って13年めだ。
大事件などに関わりなく、毎日が流れていく。刑事課といえども、強行班係三班は、通称「ザンパン」。落ちこぼれのケースだけが割り振られるばかりだ。
副署長を手なずけ、今ではほとんどの行動が大目に見てもらえている。
六本木に巨大な高層ビル群が建って、この辺りもかなり変わった。
もう、ふるぼけた安い建物は少ない。なにもかも虚構じみたこぎれいな街に塗り替えられている。かつての喫煙所兼休憩場も、今ではこ洒落たスペイン料理屋に姿を変えた。
――あれから足掛け15年になる。
鵜飼と権藤の関係は、その間もずっと続いていた。
・・・その後の付き合いって、言ってみれば援助交際だよなぁ。
巷で事件がおこり、後ろに極竜会がからんでいそうだと聞けば、鵜飼は必ず権藤の事務所に探りを入れに行った。手がかりをもらえることもあり、空振りだったりもしたが、いつも必ず、なにかしらの報酬を獲られる。
あいつは俺の、何に満足しているんだろう。
長いときは1年以上の間をおいて、短いときは立て続けに毎日、権藤と会った。
権藤から誘いの電話があれば、指定された場所へずるずると出かけて行く。
断ろうと思えば断ることもできたが、常に次の機会が示された。そこまで振り切って逃げてしまうことが、鵜飼にはできなかった。
呼び出されて酒を飲み、食事をするだけのこともあったし、鵜飼を連れまわし、実際にものを買い与えることもあった。
おやじと逢引、なんて新手の冗談だね。
どこが楽しいのか。
傍から見たらさぞ奇妙に映るだろう、と鵜飼は思った。
あの夜以来、何度となく身体を重ねた。
肌をあわせることは、ある意味二人にとっての暗黙の約束だった。
まあ・・・、要はこれ以上深入りしなきゃいいんだよ。女と違って、寝たからはらむ、てことじゃないし。
鵜飼の方から、権藤に警察の情報を流したことはない。やばい橋を渡っているという自覚はあまりなかった。
煙草の先から、均衡を保ちながら長くなった灰が自然にこぼれ落ちた。
刑事とやくざ、という組み合わせに目をつぶれば、男同士の肉体関係なんて今さら珍しくもない。
そう、感情の入らない、ただの身体の繋がり。
いつまでこんなこと、続けるんだろう。どこへ向かうのか、見えない。そんなことにこだわる必要さえもないんだ、と言い聞かせた。
いいさ、どうせ先行き長いことはない。死ぬまで付き合ったって、罰はあたらないさ。
サングラスの向こうに煙った街が広がる。
がらりと変わった景色は、過去と未来をつなぐジグザグで複雑な迷宮のように見えた。
今日は新人が来るってんだよな、面倒くせぇ。
ふと我に返る。
あまりにも現実的に、口うるさい課長と、ゴリラに似た副署長の顔を同時に思い出した。
ちょっとはましな班長さんが、来てくれるように祈りたいですな。もっとも、最初から期限付きでこられちゃ、いびりだす楽しみもないってもんだが。
短くなった残りを投げ捨て、足先で踏みにじる。
夏か。
今年は暑くなりそうだ。
暑い夏は大歓迎だね。ビールがうまいから。
しょうがない、署に戻るか、と踏み出した鵜飼の背中越しに、青い空の彼方、夕立をはらんだ暗雲が広がり始めていた。
これから広がる夏模様が、鵜飼にどんな雨を降らせるのか。
どんな嵐がくるのか、まだ誰も知らない。


[END]

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