時雨 《参》


「仕事よ」
開いた窓の外を、加代が通り過ぎる。
秀は、ことりと鏨(たがね)を置いた。
夜になり、いつもの場所にいつもの顔が揃った。
「頼み人は、身投げをして死んだお葉って娘の両親(ふたおや)。的は、扇屋治兵衛、子飼いの駒吉、捨三、藤次郎」
加代の言葉に、秀は、はっと身を硬くした。離れたところに腕を組んで立っている勇次が、ちらりと秀に目をやった。
「頼みの筋が、ちょいとややこしくてね。的を殺った上で、扇屋が握っているあぶな絵を、始末してほしいってのよ」
「あぶな絵ぇ?」
加代の話に、主水が声を上げた。
「どういうこった」
「それが酷い話でさあ、娘を攫って嬲り物にした挙句、その様子をあぶな絵にして、言うことを聞けと脅してきたらしいのよ」
秀は、薄暗い梯子段の陰で目を閉じた。
「それで娘は、いろんな男にあてがわれて、慰み物にされてね。耐えかねて、とうとう身投げしたってのよ」
「そりゃあ、随分な話だな」
主水の声も、さすがに低く沈んだ。
「それに、どうもね、他にも同じ目にあってる娘が何人もいるらしいの」
ふと、主水が考え込んだ。
「扇屋って言やあ、日本橋の小間物屋だろう。そこそこの身代らしいが、そいつだけの絵図かな」
「どういうこと?」
主水の目が、暗闇の中で光った。
「どうも、事が大き過ぎらあ。裏で、誰か糸引いてやがるかもしれねぇ」
主水は顎を撫でて、首を傾げた。
「秀、探れるか?」
秀は身を強張らせたまま、頷いた。さっと立ち上がり、梯子段の上に身を躍らせる。
その姿を目で追った勇次は、つと昏い眼を伏せた。


幾日か扇屋を張った秀は、今は件の寮の屋根裏に忍び込んでいた。
秀の眼下の座敷には、扇屋と絵師らしき男、そして恰幅のいい侍が顔を揃えていた。
「扇屋、また一人、娘が死んだらしいの」
盃を干した侍が、面白くもなさそうに言った。
「はい。ま、もう十分に働いてくれました。次の娘も、すぐに用意致します」
扇屋が、軽く頭を下げた。
 「手前どもは、小間物屋。若い娘の客が、引きも切らずに参ります」
うむ、と頷いた侍が、脇息に凭れ掛かる。
「どんな清廉な顔をしていても、所詮は金と女を抱かせれば言いなりよ」
「左様でございます」
扇屋が手を打つと、見覚えのある男が三方(さんぽう)を掲げて入ってきた。袱紗の下には、幾つもの切餅が積まれているようだった。
「これが、此度のお取り分にございます」
ずいと手を伸ばした侍が、袱紗ごと切餅を掴み、懐に収める。
「それにしても、伊福部様が、手前に出入りの職人にお目をつけられるとは、思いもよりませなんだ」
話が自分のことに及んで、秀は暗闇で息を詰めた。
「伊福部様も、たいそうなご趣味にございますなあ」
絵師と思しき男が、いやらしい笑みを浮かべた。
「想い者を男どもに嬲らせて、その様をご覧になってお愉しみとは」
秀は、ぞわりと粟立つ肌を、無意識に抱き締めた。
伊福部が、くくっと含み笑いを漏らした。
「あれは、なかなかの趣向であった。あれで、男の味を覚えたであろう。あとは、わしが存分に可愛がってつかわすわ」
悦に入る伊福部を、扇屋が見た。
「ですが、あれは、思わぬ悍馬にございました。一筋縄では、参りますまい」
扇屋の言葉に、伊福部は面白そうに笑った。
「悍馬を乗りこなすも、一興」
秀は、込み上げる吐き気を抑えて、口元を覆った。
静かに天井板を戻すと、完全な暗闇の中を、気配を消して忍び出た。


主水が、じろりと秀を見た。
「で、裏は掴めたか」
「ああ」
秀は、立てた両膝の上に組んだ腕に顎を乗せて、低く答えた。
「裏にいたのは、勘定方の伊福部ってやつだ。商人(あきんど)に娘を抱かせて金取って、集めた金をお偉方にばら撒いてた。金で動かねぇ奴には、娘を抱かせて、それをあぶな絵にして脅しをかけてたらしい」
主水の顔が歪んだ。
「絵師の名は、宗仙」
「じゃあ、絵の始末は、加代、お前ぇがやれ」
主水の言葉に、秀ははっと顔を上げた。
「それは、俺がやる。絵の在り処は、確かめてある」
主水が、目を眇めた。
「そいつを、加代に教えりゃいいじゃねぇか」
「それは・・・」
秀はたじろいで、目を伏せた。
「まあ、いいじゃねぇか」
それまで口を噤んでいた勇次が、半眼にした目をそのままに、口を開いた。
「秀がやるってぇなら、任せときゃ」
秀は、心の臓を掴みしめられたような思いで、勇次を見た。
どこまで感づいているのか。
見つめた横顔はひんやりと冷たく、何の表情も浮かんではいなかった。


秀は、身軽く塀を乗り越えて、寮に忍び入った。足を忍ばせて庭を抜け、灯りの灯る座敷の縁側に潜む。
つと目をやった先には、勇次が気配を消して立っていた。切れ長の眸が、す、と流れて秀を見た。小さく頷く。
秀も頷き返し、そろりと障子に手をかけた。
きりきりと糸の音が闇を裂き、中にいた男の首に絡みついた。勇次がぐっと力を込めると、男の体が足をばたつかせて、畳の上を滑っていく。残った男たちが、突然の事態に腰を浮かした。
秀は、さっと障子を開いて座敷に躍り込み、腰を浮かして、引き摺られる男を呆然と見ている男の背後に立った。秀の気配に振り返ろうとするところを、顔を抑えつけ、盆の窪に簪を突き立てる。
ぴん、と糸を弾く音が聞こえ、足をばたつかせていた男の首が、がくりと垂れた。
慌てて逃げ出そうとする男の首に、糸が絡みつく。
秀は、目の端にそれを捉えながら、簪をぐっと深く押し込んだ。ぎくりと男の体が強張り、そして、すぐに力を失った。
糸に絡め取られた男の体が、宙に浮いた。梁を擦る糸がぎりぎりと音を立て、うっすらと煙が上がる。
秀は、簪を引き抜き、座敷を駆け抜けて、奥の間に走り込んだ。その背後に、どさりと音が響いた。
「秀さん。やはり来ましたか」
床の間を背に端座した扇屋が、平然と笑った。
秀は表情を変えずに、扇屋に躍りかかった。
治兵衛は、小間物屋の主人とは思えない動きで身を躱し、手元の何冊もの画帖をばさりと投げた。無数の画紙が舞い上がり、部屋いっぱいに舞い落ちた。若い娘たちの無惨な姿に混じり、秀の恥態が、畳の上を埋め尽くす。
秀は、散らばった画紙を踏み越えて、治兵衛の襟を掴んだ。力を込めてぐっと引き、正面から向かい合う。
治兵衛の不敵な目を真っ直ぐに見据えて、秀は無表情に、簪を扇屋の額に突き立てた。掌を当てて、ぐっと押し込むと、治兵衛の目がかっと見開き、がくりと腰が落ちた。
簪を引き抜くと、扇屋の体はゆらりと前のめりに倒れ込んだ。その姿を見下ろし、秀は大きく息を吐いた。
足元に広がる数々の絵を見下ろした秀の身体が、ふらりと揺れた。崩折れそうな脚を踏みしめ、めまいに耐えた。
座敷との境に、す、と音もなく勇次の影が立った。青褪めた秀の横顔を見て、眉を顰める。
ふと足元に目を落とすと、幾枚かの絵が散らばっていた。すっと屈み込み、一枚の絵を手に取る。そこには、男に犯される秀の姿が、色鮮やかに描き出されていた。
「三味線屋・・・」
絵を手にした勇次に気づいた秀の表情が、凍りついた。
勇次の顔は、ひんやりと冷たく、何の表情も浮かべてはいなかった。
無言のまま立ち上がった勇次は、行灯に近づき、手にした絵をかざした。画紙は、赤く炎を閃かせて燃え落ちた。
勇次は、そのまま、背を向けて部屋を出ていった。その背中を、秀は立ち尽くして見送った。
一つ頭を振り、部屋中に散らばった画紙を一枚残らず集め、庭に下りる。地面に放り出した紙の束に、行灯から取った火を投げると、乾いた紙はめらめらと炎を上げた。
秀は、渇いた眸で、全ての絵が灰になるのを見届けて、身を翻した。

[続]


2015.11.29

[弐][Story][四]