no-dice


「兄さん、昨夜は随分、お楽しみだねぇ」
声に振り向けば、大工だろうか、日に灼けた男が、にやにやと笑いかけた。
訝しむ目をした勇次に、男は、自分の肩をちょいちょい、と指して見せた。
「色っぽいもの、背負っちゃって」
「ああ」
勇次は、小さく笑い、手で掬った湯を肩にかけた。肌に、ちりちりと痛みを感じる。
湯が滲みると、思っていたら。
秀が、珍しく爪を立てていたのを思い出し、ふっと口元に笑みを浮かべる。
少し、きつくしてしまったか。
久しぶり、だったから。
「いい女だったみたいだねぇ」
にやにやと笑う男に、にやりと笑ってみせる。
「まあね」
秀はいつも、声を殺してしまう。唇を噛み、眉を寄せて。勇次の背に腕を廻しても、爪を立てることもない。
こうして、他人(ひと)に見られたところで、どうせ、誰もが女だと思って疑いもしない。
互いに、見られて困るような仲の、女のある訳でもない。
それでも、互いの肌に痕を残すことを躊躇ってしまうのは、やはり、男と肌を合わせている後ろめたさか。
江戸では、そう取り立てて珍しいことではないし、後ろ指を指されるものでもないのだが。
もっとも。
勇次は、くすりと笑った。
秀の肌に痕を残して、加代にでも見られた日には、「秀に女ができた」と大騒ぎして、おそらくは、いの一番に勇次の店に駆け込んでくるに違いない。
別段、困りはしないが、煩わしいことではある。
秀の方は、閉口して、しばらくは勇次が触れることを許さないかもしれない。
くつくつと喉を鳴らして笑い、勇次は湯船を出た。


岡場所からそう離れていない通りの辻で、勇次は秀と、偶然、顔を合わせた。勇次は、出稽古の帰り、秀は、細長い包みを提げているので、どこかの女郎屋に呼ばれて、簪を商いに行っていたらしい。
「よう、秀」
声をかけると、一つ向こうの通りを、勇次とは反対方向に歩いていた秀が、歩みを止めて振り向いた。
「三味線屋」
勇次の姿を認めて、秀の顔に笑みが浮かんだ。
「あら、勇さん。最近、お見限りじゃないの」
突然、科を含んだ声が聞こえた。
声のする方を見ると、勇次とは馴染みの、春駒という芸者が、満面の笑みを浮かべて歩み寄ってきた。
そのまま、科を作り、勇次の胸にしなだれかかる。三味線を持っていない方の手を取り、勇次の顔を見上げて、にっこりと笑った。
「ねぇ、久しぶりに寄っていらっしゃいよう」
ちらりと秀を見ると、「またか」と言わんばかりに、醒めた目で勇次と春駒を見ていた。
「あら、お知り合い?」
勇次の視線の先に気づいた春駒が、上目遣いに尋ねてくる。
「ああ、時々、一緒にね」
勇次は、指で杯を呷る仕草をして見せた。
「じゃあ」
秀は、春駒に軽く会釈をして、勇次に、また醒めた目を投げると、何事もなかったかのように歩いて行った。
女とのことと秀とのことは、勇次にとっては別物なのだと思い決め、割り切っているのか、秀は、勇次の周りの女たちに妬いたことがない。
勇次が女と居ても、しな垂れかかる女の肩を抱いていても、醒めた目を向けるだけ。
ちゃらちゃらしている、と突っかかってきた、出会って間もない頃の方が、よほど勇次の女関係に反感を抱いていた。それも、付き合いが長くなるにつれ、あまりに勇次の女遊びが盛ん過ぎて、いちいち突っかかるのも面倒になったであろうことは、分かる。
だが、勇次と割りない仲になってからも、あるいは、なってから一層、秀は勇次の女遊びに対し、呆れたように醒めた目を向けるだけになった。
勇次は、胸の裡に、一つ息をついた。


「秀」
傍らに突っ伏して目を閉じている秀に、声をかけた。
「ん」
小さな声で答えた秀が目を開き、横目で勇次の顔を見やった。
「簪を一本、作ってくれねぇか」
勇次の言葉に、つと目を落とした秀は、ふっと息を吐いた。
肘をついて身を起こし、くるりと勇次に背を向ける。乱れた髪に手を差し入れ、くしゃりとかき混ぜた。
「結構、無神経だよな」
一つ息を吐いて、勇次には聞こえないように、ぼそりと呟いた。
そのまま立ち上がると、拾い上げた下帯を身に着ける。
「おい、秀」
何も言わない秀に、勇次は身を起こして声をかけたが、さっと半纏に袖を通した秀は、暗い板の間に姿を消した。
すぐに戻ってきた秀は、小ぶりの画帳を手にしていた。秀が、簪の図案を描き留めて、まとめたものだ。
「ほら」
勇次の前に胡座をかき、画帳を差し出した。
勇次は、ふうっと息を吐くと、画帳を受け取り、そのまま脇に置いた。
秀は、目を眇めると、溜め息をついた。
「ったく、作りたい柄があるなら、先に言えよ」
紙と筆を取りに、板の間へ行こうと立ち上がる秀の腕を、勇次が掴んだ。ぐいと引けば、体勢を崩した秀が胸に倒れ込んでくる。
「ふざけるなよ」
勇次の腕から逃れようと?がく秀の身体を、後ろから、すっぽりと胸の中に抱き込む。
羽織っただけの半纏の襟を引き下ろし、露わになった骨張った肩に唇をつける。 
「少しは、妬いてみせるくらいしろよ」
唇を肌に触れたまま囁けば、秀の肩が小さく揺れた。
「莫迦莫迦しい。いちいち妬いてて、お前ぇと、こんなことしてられっかよ」
勇次は、つと眉を寄せた。
「随分な言い様だな。女には、とんとご無沙汰なんだがな」
「そりゃあ、珍しいこともあるもんだな」
くっと笑った秀の言葉に、勇次は溜め息をついた。半纏をさらに引き下ろして、薄く、無駄のない筋肉のついた背中に唇をつけた。
「こうして、お前ぇを抱いてる方がいいんでね」
張りのある肌を、きつく吸い上げる。秀の唇から、ふっと吐息が漏れた。
そのまま、秀の身体を布団の上に組み敷く。なだらかな背に舌を這わせれば、秀の身体が小さく震え、細やかな細工を生み出すしなやかな指が布団を掴み締めた。


秀が井戸端で汗に濡れた体を拭いていると、部屋を出てきた加代が、いつものように、ぱたぱたと近づいてきた。
「あら、秀さん。こんなところ、虫に食われて」
目ざとく、秀の背中に赤い痕を見つけた加代が、大きな声をあげた。
「え」
秀が怪訝な顔をすると、加代は今度は目を丸くして、すぐに、うひひ、と妙な笑い声をあげた。
「やだ、秀さん、これ虫じゃないじゃない」
そう言うと、面白そうに秀の顔を覗き込んだ。
「とうとう、コレ、できたんだ」
にやにやと笑いながら、小指を立ててみせる。
その仕草に、秀は、背中の“虫に食われた痕”の正体に気づき、ぎくりと顔を強張らせた。
何も言わない秀に、加代は畳みかけるように続けた。
「ねぇねぇ、どんな女?どこの女よぉ」
秀の脇腹を、肘でつつく。
「・・・どこの女でも、いいだろ」
漸くそう言うと、秀はそそくさと部屋に戻った。後ろ手に閉めた障子戸の向こうから、加代の笑い声が追いかけてくる。
「何よぉ、照れることないじゃない」
また、うひひ、と妙な笑い声を立てる。
秀は、頬が熱くなるのを感じて、顔を伏せた。
どうして、こんな真似。
『少しは、妬いてみせろよ』
勇次の囁きが甦り、かあっと、耳まで熱くなる。
痕を、残すなんて。
妬いてないわけ、ないだろ。
それぐらい、分かれよ。
秀は、目を伏せ、口元を手で覆った。


「ちょっと、勇さあん」
姦しい声とともに、加代が暖簾を分けて店に入ってきた。
五月蠅そうに眼をあげた勇次に、にやにやと妙な笑いを浮かべてみせる。
「どうしたんだよ、妙な顔して」
呆れたような勇次の声に、加代は両袖で口元を覆い、うひひ、と笑った。
「秀にさあ、コレができたのよ」
片手を袖から出し、小指を立ててみせる。
「へえぇ」
勇次がわざとらしく目を丸くしてみせると、加代は上り框に腰を下ろした。
「こんなとこに、痕つけちゃってさあ」
そう言うと、自分の肩の後ろを指で示して見せた。
勇次は、面白そうにくっくっと喉を鳴らして笑った。
「そりゃあ、また」
「それがさあ、どこの女か、訊いても言わないのよ」
口を尖らせる加代に、呆れたように笑ってみせる。
「どこの女だって、いいじゃねぇか。秀だって男だぜ」
「そりゃあ、まあ、そうだけどさ」
ちょっとつまらなさそうな顔をした加代に、勇次はにやりと笑った。
「秀の女の心配より、お前ぇの心配したら、どうなんだい」
「どういう意味よぉ」
加代が、ちらりと目を上げる。
「お前ぇもいい年なんだから、男の一人もいねぇのか、ってことだよ」
くっと喉を鳴らして笑う勇次に、加代は、むっと顔を顰めた。
「大きなお世話よぉ。男はね、たくさんいるの。選んでるだけなのよ」
ぶんむくれた顔をした加代は、ついと立ち上がると、ばたばたと店を出て行った。
残された勇次は、今度こそ、心底面白そうに声を立てて笑った。加代が、あまりにも思った通りの行動をしてみせたからだ。
今頃、秀は加代の大騒ぎに閉口して、勇次に腹を立てているに違いない。
これで、当分は触れることを許してもらえそうにない。
勇次は、また面白そうにくっくっと喉を鳴らして笑った。


勇次が、店前で三味線の皮をなめしていると、裏の小さな庭に通じる障子の向こうに、人の気配がした。
「秀か」
声をかけると、す、と障子が開いた。小さな濡れ縁に、むっと顔を顰めた秀が腰かけていた。
「お前ぇ、なんてことすんだよ」
秀の言葉に、勇次はわざと怪訝な顔をしてみせた。
「何のことだ」
秀は嫌そうに、また顔を歪めた。言いにくそうに、言葉を選んでいる。
「・・・だから、加代がどこの女だって、しつけぇんだよ」
あからさまな言葉を避けた秀に、勇次は、くつくつと喉を鳴らして笑った。
「うちにも来たぜ。お前ぇに女ができたって、大騒ぎして」
「な・・・」
あのバカ、と秀は俯き、額に手を当てた。
「とにかく、当分うちに来るなよ」
ばっと顔を上げた秀が、強い口調で言った。
「加代が、うるせぇからかい」
勇次が笑って答えると、秀はきっと睨みつけてきた。
「そうだよ」
勇次は、にやりと笑って見せた。
「だったら、お前ぇがうちに来なよ」
さっと頬を染めて、秀は立ち上がった。
「誰が来るか!」
ぱしんと音を立てて障子を閉めると、秀らしくもなく、ざくざくと足音を立てて裏庭を出て行った。
しばらくは、顔を見ることもできそうにない。
勇次は、ふっと口元に笑みを刷いた。


秀の引き締まった肢体が、勇次の身体の下で揺らめく。
ほんのりと肌を染めて、唇を噛み、眉を寄せる横顔が、勇次の情欲をそそる。
久しぶりに抱けば、つい、きつくしてしまう。勇次は、ふと口元に苦笑を浮かべた。
秀が、殺しきれない声を零さぬように、口元に手を当て、その甲に歯を立てた。
勇次は、その手を掴み取り、甲に残る歯形にくちづけた。
「ゆう・・・じ」
眦を朱に染めて、秀が勇次を見上げた。黒目がちの眸は、欲情に濡れている。
「こんな痕をつけるくれぇなら、俺に痕を残せばいい」
勇次の言葉に、秀はつと目を逸らした。
「そんなこと・・・」
勇次は、秀の引き締まった胸に唇をつけ、きつく吸い上げた。
「ん・・・」
秀の唇から、吐息が漏れた。
「こんなふうに・・・」
秀の肌に、鮮やかに赤い花弁(はなびら)が落ちた。
「どうせ誰かに見られても、誰もお前ぇがつけたとは思わねぇ」
秀の胸から顔をあげた勇次の眸を、秀は、ほんの少し眉を寄せて見上げた。
勇次は、秀の首筋に顔を埋め、耳朶にくちづけんばかりに唇を寄せた。
「俺は、そう思われても構わねぇんだがな」
「莫迦なことを・・・」
小さく身動ぎをした秀が、掠れた声で呟く。
勇次は、ふっと笑った。
「まあ、八丁堀達の手前、そうもいかねぇが」
「当たり前ぇだろ」
秀が、どこか呆れたように呟いた。
勇次がゆるりと腰を突き上げると、秀は、身裡に湧きあがる快感を逃がすかのように、背中を丸め、勇次の肩に額をつけた。
「俺は、知られたくない・・・」
秀の呟きに、勇次はつと眉を寄せた。
やはり、後ろめたいのか。それとも、この関係自体を疎んじているのか。
「誰にも、邪魔されたくない・・・」
続く秀の濡れた声に、勇次はふと眸を和ませた。
追い詰めるように、何度もきつく突き上げると、秀の腕が勇次の背中を抱いた。
「ん・・・あ・・・」
小さく喘いだ秀の爪が、勇次の肌に食い込む。
その痛みさえもが、勇次の情欲を煽る。
勇次は、秀の引き締まった腰をきつく抱きなおした。


ちりちりと、肌に微かな痛みを感じて、勇次は、ふっと笑みを浮かべた。
秀が残した爪痕に、湯が滲みる。
小さな傷に、そっと這わされた、熱く柔らかな舌。朝、着物に袖を通しかけた勇次の肩を、後ろから抱くようにして、秀は自分のつけた爪痕に唇を触れた。
その手に手を重ねると、秀は勇次の肩に顔を伏せた。
『妬かねぇわけ、ねぇだろ。それぐれぇ、分かれよ』
勇次の肩に額をつけて呟いた、秀の声が甦る。
いつか秀の肌に残した痕への、答え。
つと振り向き、唇を寄せれば、応えるように秀も唇を寄せて。
重ねた唇の甘さに、あのまま、また抱いてしまうところだった。
勇次は、小さく苦笑を浮かべた。
「兄さん、昨夜もお楽しみかい」
笑いを含んだ声に振り向けば、いつぞやの男だった。
「よほど、いい女なんだねぇ」
冷やかすような男の言葉に、勇次は口元に笑みを刷いた。
勇次の身体の下で、ほんのりと肌を染め、眉を寄せて声を殺す、秀の顔。
縋るように、勇次の背中を抱いた腕。肌に食い込む、爪の痛み。
「ああ、あんまり可愛いんでね。つい」
勇次は、くつくつと笑った。
「やりすぎちまってね」
にやりと笑って、そう答えると、男は、参ったね、と肩を竦めた。
「とんだ惚気を、聞かされちまったよ」
ごちそうさま、と言い置いて湯船を出る男の背中を見送って、勇次は目を閉じた。
手で湯を掬い、肩にかける。また、ちりちりと、肌に微かな痛みが伝う。


互いの肌に残した痕は。
伝え切れない想いの、痕。

[終]



2015.06.11


[Story]