no-dice

Somewhiter(どこかへ)


松田は、何気なく2人分のコーヒーを淹れてしまったことに、ひとり苦笑を零した。
今ごろ、巽のハーレーは、いったいどこを走っているのか。
巽は、署の皆に冷やかされながら、爆弾と一緒に狭いエレベーターに閉じ込められた仲の代議士令嬢とツーリングに出かけた。照れに照れていた巽の顔を思い出して、松田は、またひとり、笑いを零した。サイフォンの音が静かに、ひとりの部屋に響いていた。
コーヒーをカップに注いだころ、玄関のチャイムが鳴った。もう、人が訪ねてくるには随分と遅い時間だった。
「よう。おまえ、デートじゃなかったのか?」
開いたドアの向こうには、お嬢様とデート中のはずの巽が立っていた。
「やってられっかよ。あんなアバズレといつまでも・・・疲れちまわぁ」
不貞腐れたように言うと、巽は上目遣いで、松田の目を覗き込んだ。
「なあ、リキさん。もしかして、ちょっとは妬いてくれた?」
「馬鹿言ってろ」
松田が笑って、巽を招じ入れた。
ちぇっ、と小さく舌打ちをした巽は、部屋に上がりこむとソファに身を投げ出した。
「リキさん、コーヒーでも飲ませてよ」
「うちはサ店じゃねーぞ」
松田は、苦笑しながら、余分に淹れてしまったコーヒーをカップに注いだ。
巽は、何とはなしにつまらなそうに黙り込んだまま、ゆっくりとコーヒーを飲み干した。
松田は、あえて何も言わずに煙草を燻らせながら、コーヒーを啜る。
巽が、所在なげに空になったカップを掌の中で弄んだ。
「なあ、タツ」
「ん?」
「ハーレー、ちゃんと食わしてるか?」
ポツリと呟いた松田の言葉の唐突さに、巽は、きょとんとした顔をした。
「満タンだけど―――なんだよ?」
「―――今からじゃ、そう遠くへは行けないけどな」
そういうと、松田はカップを口元に運び、目線をちらりと天井へ向けた。松田の視界の片隅で、巽が一瞬怪訝な顔をする。
次の瞬間、ぱっと喜色を浮かべた巽に向かって、松田は悪戯っぽくウインクをして見せた。
「どっか行くか」

「リキさん」
巽が、照れ隠しなのか、ぶっきらぼうに投げてよこしたヘルメットからは、多分に気のせいではあるだろうが、微かに甘い香りがした。隠しようもなく嬉しげな巽の背中をちらりと見やって、松田は、煙草の煙を胸深く吸い込み、甘い香りの残るヘルメットの内側に吹きつけた。
「どしたの、リキさん」
「なんでもねぇよ」
少し訝しげに振り返った巽に軽く笑って見せると、松田はヘルメットを被り、タンデムシートに腰を下ろした。ハーレーのエンジンをかける巽の背中に向かって、小さく苦笑を漏らす。
「なんでもねぇよ」

突堤の先の黒い海に、金色の下弦の月が揺れている。どこかで汽笛の音が響いた。
結局、高速をあてもなく走った後、誰もいない真夜中の埠頭まで足を伸ばした。突堤に停めたハーレーに跨ったまま煙草を咥えた巽の背中に凭れて、松田も煙草を燻らせた。
何を話すでもなく、煙が潮風にさらわれていくのを、ただぼんやりと眺める。触れ合った背中から、互いの温もりと、煙を吸い込むゆっくりとした動きだけが伝わってきた。そうやって、随分と長い時が流れていった。
まだあたりは闇に包まれてはいたが、もう、どこか遠くに朝の気配が漂い始めていた。
「リキさん、今、何時かな?」
巽がぽつりと呟いた。
「さあなぁ。もうそろそろ、夜が明けるだろ」
松田は、時計も見ずに答えた。真夜中のツーリングも、そろそろお開きの時間だ。あと何時間かすれば、何もなかったように、薄汚れた街を駆けずり回るのだ。
巽は思わず呟いた。
「―――このままどっか行っちまいてぇな」
巽の背中にかかっていた心地よい重みが、ふっと軽くなる。巽は、背中が僅かに寒くなった気がした。次の瞬間、とん、と軽く松田の背中が巽の背に凭れなおした。巽は、それだけのことが、泣きたいほどに温かいと思った。
「もう来てんだろ」
「――んだよ、茶化すなよ」
「拗ねるなよ」
松田が笑って、腕を伸ばした。後ろ手に、巽の髪に手を差し入れ、くしゃくしゃとかき混ぜる。子供扱いをされたようで、巽は不機嫌に黙り込んだ。
「どしたよ、タツ?」
「―――どうせ、俺はガキだよ」
巽の拗ねた口調に、松田は、ふふんと笑った。
「そこがいいんじゃないの」

[END]

[Story]