no-dice

The Tears of the Moon ◇1◇

〜One Night Stand V〜


物憂い昼下がり。
署内の廊下ですれ違った鳩村の、よく手入れの行き届いた革の匂いとそれに僅かに混じるオイルの臭いに、遠い記憶を呼び覚まされて、松田はふと足を止め、振り向いた。
松田の視線に気づかないまま歩み去る鳩村は、革の上下のライダースーツを身にまとい、バイクの整備でもするつもりなのか、工具を下げていた。
廊下の角を曲がって消えた鳩村の背中に、無意識に懐かしい面影を重ねた松田は、長い間、その場に立ち尽くしていた。

松田がパトロールから戻ると、駐車場の片隅で、鳩村がカタナを前に座り込んでいた。工具を身の回りいっぱいに並べ、盛んにカタナの足回りをいじっているらしかった。
松田は、無意識に足を止め、少し離れた場所から、無心にバイクをいじっている鳩村を見つめた。
日頃は、気障で、すかしたところの目立つ鳩村だが、バイクを前にしたときはまるで別人のようだった。大人の男になる直前の横顔は、今は、あどけない少年のものになっていた。
松田の気配に気づいて顔を上げた鳩村が、笑みを浮かべようとして、ふと表情を硬くした。鳩村を見つめる松田の眼差しは、鳩村の上を通り越して、どこか遠くを見つめていた。
「リキさん?」
鳩村は、しばらく躊躇ったあと、遠慮がちに松田の名を呼んだ。
不意に名前を呼ばれて、松田は、たじろいだように一歩下がった。怪訝な顔をしている鳩村に、気を取り直して微笑みかける。
「バイクの手入れか?」
「ええ」
「ガキみたいな眼、してたぞ」
そう言って笑う松田に、鳩村は少しむっとした表情を浮かべて見せた。
「ガキはないでしょ」
鳩村らしくもない稚ない顔に、松田の胸を懐かしい面影がよぎっていった。
鳩村は、押し黙ってしまった松田の眼差しの、どこか哀しい色に、かけるべき言葉を探しあぐねた。
「―――リキさん、今日、飲みに行きませんか?」
何故とはなく、松田を一人に出来ないような気がして、鳩村は広げていた工具を手早く片付けて立ち上がった。
「ああ」
松田が、どこか上の空で答えた。

いつもならコーナーラウンジに行くところだが、今日は見知った顔に会わない方がいいような気がして、鳩村は、アメリカから戻ってから一人で見つけたこぢんまりとしたバーに松田を誘った。
仄暗い照明の下で見る松田の横顔は、飄々とした中に精悍さを秘めた日頃の松田からは想像もつかないような、どこか儚げな風情を漂わせていた。
いつもなら屈託なく、他愛のない世間話に興じる松田が、珍しく黙りがちにただグラスを重ねていく。そして、グラスを重ねるほどに、その横顔の翳りが増していった。
鳩村は、そんな松田にただ寄り添うように肩を並べて、静かにグラスを傾けた。

「リキさん、しっかりして」
鳩村は、彼らしくもなく酔い潰れてしまった松田を、抱きかかえるようにして歩いていた。本来なら、松田の部屋へ送り届けるべきなのだろうが、何故かそうしない方がいいような気がした。
「俺の部屋で休んでって」
何を話しかけてもほとんど反応しなくなった松田を、リビングのソファに座らせて、鳩村はキッチンに行き、水を汲んだ。
「少し飲んだほうがいいよ」
差し出されたグラスを力なく振り払うようにして、松田が口を開いた。
「酒」
全く松田らしくないそのさまに、鳩村は眉を寄せた。
「飲みすぎだよ、リキさん」
「いいから、酒」
「何荒れてるの。らしくないよ」
鳩村の言葉に、松田の表情がぴくりと動いた。
「らしくない?―――らしいってなんだ?いったいどうすれば俺らしいっていうんだ!」
突然激昂した松田に、鳩村は戸惑った。
「俺は、どうすればよかったんだ、タツ」
震える松田の声に、鳩村は、つと松田に身を寄せると、その唇を唇で塞いだ。
「―――俺は、慰め方はひとつっきり知らないから」
そう言うと、鳩村は、驚いたように眼を見開いた松田をそっと抱き寄せた。
松田が何故荒れているのかは、鳩村には分からない。だが、松田が今、誰かの腕を必要としていることだけは確かだった。
細い背中に腕を回して胸の中に抱き込むと、松田が、何かを断ち切るように静かに眼を閉じた。鳩村は、引き寄せられるように松田の薄い唇に唇を重ねた。
固い蕾のように閉ざされた松田の唇をそっと舌でなぞると、蕾がほころびるように薄く唇が開かれた。誘い込まれるように、鳩村の舌が松田の口中に忍び込む。

鳩村がゆっくりと松田の中に身を沈めると、松田の細い体がしなるように反り返った。
鳩村は、松田が『男』を受け入れるのが初めてではないことに気づいた。それは、どこか心の片隅で予感していたことだった。
「は―――あっ」
ゆっくりと突き上げるように腰を動かすと、松田の細い体ががくがくと揺れた。鳩村の腕の中で、青い月の光に濡れながら、松田は儚く乱れた。
「タ―――ツ」
松田の薄い唇から零れ落ちた声に、鳩村の胸に寂寞とした思いが広がった。
それでも。
たとえ、誰かの代わりでも。
肌を重ねずにはいられなかった。その温もりが松田にとって必要ならば、鳩村はただそれを差し出すだけだ。
鳩村にできるのは、ただそれだけだった。
「―――――」
微かに動いた松田の唇が、また見知らぬ誰かの名を呼んだ。

巽総太郎。
捜査資料を戻しに行った資料室で、棚から落とした一冊の資料。それは、捜査資料ではなく、これまで西部署に勤務した職員の履歴綴りのうちの一冊だった。
鳩村は、開いて落ちた綴りを取り上げ、埃を払おうと何気なく眼を落とした。
巽総太郎。聞いたことのない名前だった。だが、その響きが鳩村の記憶を刺激した。
―――タツ。
初めて松田を抱いた夜、松田が呼んだ、見知らぬ誰かの名前。
名前の横に貼られた写真の、まだ少年の幼さの残る顔と、それを裏切るようなナイフのようにぎらついた眼差し。自分より少し若いその顔は、どこが、というわけではないが、自分と似ている気がした。
鳩村は食い入るように、その履歴書をつぶさに眺めた。高校を卒業してすぐに警官になっている。バイクが好きで、白バイ隊勤務の経歴がある。特記事項として、大型バイクを使用した捜査を認められていたことが記されていた。二人で行動することが原則の刑事としては、鳩村同様、異例の措置だった。そして―――。
殉職。
履歴の最後に記された、二文字。それが、すべてを物語っている気がした。
松田と巽の間に何があったかは、鳩村には知る由もない。松田に問いただす気は毛頭ない。昔のことを知っているであろう源田に探りを入れることも考えられたが、そこまで踏み込んでいいとは思えなかった。
ただ、ぼんやりと、松田は自分の中に死んだ巽の面影を見ているのだろうな、ということは分かった。鳩村には、それで十分だった。
パタン、と音を立てて綴りを閉じた鳩村は、胸の中に呟いた。
「巽さんよ、あんた、なんでリキさんを一人置いて逝っちまったんだ?」



2005.9.6

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