裏亡国


by 義府祥子様
<1;記憶>


艦橋に立つと、一面は青い板のようだった。
「ベタ凪ぎだな。」
宮津は、誰にともなくつぶやいた。
胸のポケットから取り出した煙草に火を点ける。ゆっくりと紫煙がのぼった。
・・・嵐の前の静けさ。
そんなありふれた言葉が頭の中に浮かんだ。
これから自分は人であることをやめる。
感情を捨てて、憎しみを原動に動く機械となる。
・・・できるのだろうか。いや、もう考えまい。
すべては、すでに回り始めているのだから。
煙が目にしみた。

<2;現在>


偶然ではなかった。
確かに竹中は、意図を持って、艦長室の前に立っていた。
この扉を本当にあけるべきか、自分がこのことを告げるべきなのか、わずかに逡巡していたとき、部屋の中から、かすかなうめき声が聞こえた。
ただしくは、聞こえたような気がした。
・・・艦長は昔、船酔いしやすかった・・・。
初めて出会った護衛艦の中で、激しい運転のあと青ざめていた横顔を思い出し、竹中は薄く扉を開けた。

艦長室の明かりはついたままだった。
宮津の執務机が、扉の斜め左前にあり、ノートパソコンの上に突っ伏したような上半身が見えた。
そして、うめき声は現実のものとなって、竹中の耳をうった。
具合がわるいのだろうか。
「・・・艦長。」
かけようとした声が途中で途切れた。
デスクの上、黒い影が宮津の後ろから覆いかぶさり、不規則な律動を繰り返している。
まるで、獣の交合を思わせる激しい動き。
湿った音をたてて繰り返される行為。
宮津の白いスボンは下着とともにひざ下まで乱暴に、引き下げられ、身体は一点で楔に貫かれていた。
日焼けした首筋の色から想像もできないほど、服の下の宮津の肌は白かった。
その宮津の細い腰に男の雄雄しい腕がまわされ、引き寄せては、離す。
両手は指の関節の色を失うほど握り締められ、宮津はまさに犯されていた。
苦しげな息が聞こえ、眉間には深いしわが刻まれる。
二つの目は固く閉ざされ、まるで竹中ばかりか、自分のまわり世界中を見るまいと言っているかのようだった。

背中の男が、こちらを見つけてにやりと笑った。
ホ・ヨンファ。
この《いそかぜ》を地獄にたたきこんだ張本人は、宮津の上でさらにその強大な力を見せ付けるかのように、力強いストロークを繰りかえした。
スピードがあがる。
宮津のうめきに切なさがました。
声もたてず、ヨンファは絶頂を極め、宮津の意識はつかの間闇に飛散した。

<3;過去>


「なにもなくて、かえってすまないな。」
缶ビールを手渡しながら、宮津は照れたくちぶりで言った。
斜めに差し込む夕刻の夏の光の中で、竹中が笑いかえした。
「こうやって話していると、時のたつのを忘れます。」

宮津が先任仕官として「ゆうかぜ」に乗って二年、曹士を相手に開いていた私的な勉強会は「宮津学校」と呼ばれるようになっていた。海上自衛隊の仕事を広い意味で知り、価値をわかってもらうために始め、自分のできるほんのささやかなことだ。すでに何名かが幹部候補学校にあがり、上を目指している。「学校」と呼ばれることはくすぐったいような気持ちであったが、わずかな手ごたえも確かに感じていた。竹中は防大出身でこそなかったが、まだ人数の少ない初めのころから、熱心に参加している一人だった。
ふだんはシニカルな横顔を見せていた彼が、どこで見ていたのか、護衛艦の小刻みな揺れに気付かれぬよう耐えていた宮津に、黙ってハンカチを差し出したことをよく覚えていた。

久しぶりの陸、たまには一杯飲まないかと、と自宅に誘った宮津は、近所まで来てようやく妻の芳恵が息子をつれて実家に帰省していたことに思い当たった。
家人の不具合で、急に決まったことだった。
普通なら芳恵が家を留守にするはずはなく、あてがはずれてしまった。
外に食べに出るか、というのを、竹中が家の方が落ち着くとかえす。
竹中は他の仲間とともに、何度か宮津の自宅へ出入りしたことがあった。事実、宮津の家は主の気持ちを表すように、なにもかも受け入れ、不思議にゆったりできた。

「気のきいたつまみでもあればいいんだが。」
近くのスーパーマーケットで買い込んだ惣菜をならべたちゃぶ台を前に、独り言のように宮津がつぶやいた。
「自分は十分です。」
竹中は几帳面に答えた。
年の4分の3を海の上で過ごす宮津にとって、家族よりも一緒にいる時間の長い、同士。そのうえ陸にあがっても一緒なのに、竹中にはともにすごす時間のひと時ひと時が刻まれる記憶のように感じた。
ビールの空き缶が三本、四本と増える。
アルコールに強くはない宮津のペースが落ちた。酔いが宮津のまぶたに翳りを映した。

「宮津さん・・・。」
陽が落ち、窓の外から名残りの雨のように蝉の声が聞こえる。
竹中の目が、すっと細められた。
ゆっくりと顔が宮津に近づく。
驚いて離れようとする背中を、いつのまにか抱きしめられていた。
唇が震えながら重なる。
「宮津さん・・・。ずっと、あなたを見ていました。」
切迫した声音は、それが本気であることを告げていた。
ぞくりと、宮津は震えた。
竹中の広い肩が、宮津の身体をたたみの上に押し倒す。
口腔におずおずとあたたかい舌が差し入れられた。男の重みを身体に感じて、宮津は目をつぶった。

宮津にとって、はじめての経験というわけではなかった。
大学の寮の部屋長をしていたとき、三期後輩がやはり宮津を慕い、関係を迫られた。
新しく着任した艦の停泊時、ふいの居残り番を命ぜられ、いぶかしんでいるところで新任幹部から告白されたこともある。
華奢な体格の宮津が、男ばかりの閉ざされた環境の中で「無理強い」されたこともあった。
何故だろう。
妻も子もありながら、宮津は「どうしてもいやだ。」と感じたことはなかった。
そんな自分に、油断がありすぎるのだろうか。
竹中の腕は力強く、宮津は目を閉じた。

竹中の唇は、宮津の首筋をたどり始めた。
左手が器用に胸のボタンをはずしていく。
「・・・背中が痛い。」
露わになった上半身に竹中が触れようとしたとき、宮津は口に出した。
竹中の指先が止まった。
「いいんですか?」
「いいもなにも、お前が始めたんだろう。」
竹中は少し笑った。
こんなときなのに、その笑顔は清清しかった。
「布団、敷きます。」
竹中は起き上がり、まるで自分の部屋のように押入れのふすまを開けた。

夜はこれほど長かっただろうか。
薄れていく意識の中で、何度も宮津は思った。
熱い身体。丁寧にほどこされる愛撫。優しく繰り返す口付け。
竹中は宮津のなにもかもを愛した。
もう一度、いいんですかと聞いておきながら、返事も待たずに宮津の内にゆっくりと入ってくる。
宮津は拒まなかった。
うっ、と言葉にならない声が漏れた。
吸ったはずの息は悲鳴のような音に変わり、竹中は汗に濡れた宮津の額に触れた。宮津は竹中の顔を見上げた。
「あなたのいる場所だけが、自分にとって明るく見えたんです。」
奥深く、体積を増しながら、竹中は告白した。
宮津の目じりからうっすらとあふれる滴を、竹中の舌が拭う。
「あなたの、そばにいたい。」
こたえられない宮津の上で、竹中は達した。

<4;現在>

その刹那、一瞬は永遠に感じられた。
ヨンファの手が離れ、スローモーションで宮津の身体が崩れる。
はじめて呪縛をとかれたかのように、竹中は駆け寄った。
「艦長。」
平然と身づくろいをするヨンファのそばで、竹中は宮津を抱きおこした。白濁した液の異臭が漂う。
唇の端がきれて、殴られたあとが明白だった。
宮津の目の焦点が定まらない。
いよいよ対日本政府との交渉に艦内が煮詰まる中、この男は自分の欲求のために暴力づくで宮津を自由にしたのだ。
「・・・貴様っ!」
怒りにまかせた竹中のこぶしを、ヨンファは軽くかわした。
「大事な艦長を、汚れたままにしておいていいのか。」
薄笑いを浮かべる口元に、竹中の感情が沸騰した。

「よせ。」
突然、正気にかえった宮津が言った。
肩越しにかけられた声に、竹中は戸惑うように振り返った。
「艦長。」
ふたたび宮津のそばに座り込む。
「副長、おさえてくれ。少佐は・・・。」
「・・・。」
宮津の顔がゆがんだ。
「どこか、痛みますか。」
竹中は肩を支え、その瞳を覗き込んだ。
CICの中の宮津は、竹中と目さえあわせようとしなかったから、久しぶりに顔を見たような心地となる。
「大丈夫だ。」
言葉と裏腹に、宮津の眉が寄せられる。
宮津は竹中から目をそらした。
身体に飛び散った残滓を、乾く前に拭い去りたかった。

「一時間後に政府との交信だ。それまでには身支度を整えてくれ。」
竹中が、ユニットバスで濡らしたタオルを宮津に手渡すさま見ながら、ヨンファは無表情に声をかけ艦長室を出て行った。靴音が高く響く。
殺気立つ竹中を、宮津が無言で制した。
そのとき、竹中は誓った。
許さない。誰が許しても、自分はけして許さない。艦長を無理矢理奪ったことを、けして認めない。
殺してやる。いつか。
ホ・ヨンファ、貴様を殺すのは自分だ。

<5;過去>


夜の国があるとしたら、男はそこから来たのかもしれない、と宮津は思った。
黒いコート姿は不吉にさえ見えた。
「息子さんは殺されたんです。」
そう言って、長い話しが始まった。
男は宮津の協力を必要としていた。宮津が力を貸しさえすれば、すべてのほかの手はずを整えてみせるとまで言った。
しかし宮津は、男の身元を聞き、論文を手渡され、読み終えて連絡先に電話をするときにもまだ、ためらっていた。

それまでなにもかも順風満帆に歩いてきた自分に、それだけの憎しみがもてるのだろうか。
たった一人の息子を奪われた。
その絶望は変わらない。
でも、自分が立ち向かうために越えていかなければいけない壁の前にはそんな「たった一人」が何人も並んでいる。
すべてを骸にしてまで、自分は進んでいけるのだろうか。
宮津の理性がノーを発していた。
だから、男が電話で指定したホテルの部屋に出向いたときにも、宮津はそう話した。無理だ、と一言言った。

「・・・つまり、憎む自信がない、ということですか。」
男は乾いた声音で尋ねた。
簡素なビジネスホテルの一室で、宮津はベッドに座り、男と向き合っていた。
「しあわせぼけをしている自分には、憎むこともできないと?」
「わからない。」
宮津は目を伏せた。
考えても答えが出なかった。
「では貴方に、憎むことを教えてあげよう。」
沈黙の後で、男は驚くほどすばやく宮津の腕をとり逆手にねじった。

煌々と灯りをともしたまま、男は宮津のうなじをきつく噛む。
紅く血を流した跡がくっきりと残った。
両腕を縛められ、自由のきかない宮津の腰を抱え込み、下着ごと服を脱がせると前触れもなく深部に自らの所有のしるしを打ち込んだ。
宮津が痛みに声をあげる。
雄の本能だけが、宮津の身体を切り刻んでいく。
宮津の目の前がかすんだ。

それは今までの「愛される行為」とはまったく別のものだった。
同じように身体をつながれ、同じように反応していても、そこにはみじんの優しさも感じられず、心にこれまでに感じたことのない激情が渦をまいた。
「息子さんと・・・、隆史くんと、似ている。」
男はわざと耳元で囁いた。
衝撃が走った。
頭の芯から、恐怖と怒りがたぎりたった。
「私は彼を愛していた。」
男の声は平静を装いながら、微妙に揺れていた。

そうか。
宮津の心に暗黒が広がった。
愛するものをともに失った哀しみが染み渡り、涙が流れ落ちた。

「父と母は、暴動の折に殺され、ひとりになった私は偵察局長リン・ミンギ大尉に育てられた。そのことを感謝こそすれうらむ気持ちはない。しかし、私が成人し、軍に入隊するまでの十五年間、彼からなにをされてきたか知っているか?清廉な愛国者の顔の下に、隠れている素顔を、一人として気づかなかった。私のうちの、静かなる屈辱を誰も知らなかった。私は自分の上におこったことを何も語らず、すべての思いをためた。いつか、私が本当の力を持ったとき。必ずそのときに、なにもかもとりかえす、と。すでに私はリン・ミンギから逃れた。そして次は、失ったものに報復するときだ。」

ホ・ヨンファの独白が宮津の耳に届いていたかはわからない。
宮津は自分が、強大な闇に飲み込まれるのを感じた。
確かな憎しみがあった。
隆史を奪ったものに対して、なにもできなかった自分・・・。この男の力を借りてでも走り出さなければ、ひとつとして納得できないままに終わる、と思った。
もう、戻れない。
時計は今までと逆に、回転し始めた。
仇をとってやるぞ・・・。
宮津の頭の中で、その言葉が爆発した。

<6;現在・竹中>


なにもかもが狂いはじめていることに、もっと早く気づくべきだった。
竹中は昔よりもさらに薄くなった、宮津の肩を見て改めてそう思った。
自分の話に耳をかたむけるふりをしながら、宮津はほとんど食事をとれていなかった。これはみんなが自分の勝手でやっていることだから、気にすることはないから、そう言葉をかけてもなお、宮津の胸が重くふさがれていることが、すぐにわかった。
自らのことを語る重い口ぶりに、あきらかな迷いが感じとれた。
自分が止めることができたなら、艦長をここまで苦しめなくてもすんだのかもしれない。
でも、・・・今はもう遅い。
そんな気がした。
宮津の背中に、手が届かなくなっていた。
CICで交わされる言葉は、本音で語られていなかった。
そしてその背後にいつもヨンファの姿があることを、竹中は知っていた。

汚された宮津の身体を拭くときに、その細い首筋に鮮やかな跡をみつけた。
しばし意識を飛ばしていた宮津が、竹中の視線に気づき、あわてて胸元をあわせる。
竹中はあることに思い当たり、呆然となった。

宮津隆史の葬儀はごくごく内輪で行われた。
偶然にも《いそかぜ》のフラム中で内勤をしていた竹中は駆けつけることができたが、宮津学校の多くの仲間は海上にいたからだ。
棺に花を手向けるとき、白い着物の襟元が気になった竹中は、そっと直そうとしてその首筋に紅い跡があるのを知った。
隆史くんにも、彼女がいたのか・・・。いったいどんな娘だったのだろう。この葬儀には来ているのだろうか。
宮津の首筋の印は、紛れもなく、それと同じものに違いなかった。
甘い感傷が一気にかき消された。

それはヨンファとの悪魔の契約のあかしなのだ。
初めに契ったのは、おそらく隆史くん・・・。
そして今は艦長がそれを引き継ぎ、ヨンファの思いに操られている。
ヨンファは自らも持て余す欲望と怒り、そして哀しみを宮津に注ぎ込み、宮津の本質を失わせているのだ、と竹中は感じた。
あまりに圧倒的なその憎しみが、抜け出すことを許さずにいる。

しかし自分もまた、宮津のことを思っていた。
宮津への二十年を振り返り、竹中は唇をかんだ。
いつも宮津を見ていたい、宮津のそばにいたい、同じ護衛艦にのれない時期にあっても、その気持ちにかわりはなかった。
だからこそ、人事課長の計画を知りながら、今回宮津が艦長として乗船するこの《いそかぜ》に、そのまま残って宮津を補佐する道を選んだのだ。
ヨンファの計画がどうあれ、自分は宮津と同じ運命をたどりたかった。

今、宮津はヨンファの内にいた。
ヨンファの憎しみで宮津は動けなくなっていた。
自分になにかできるのか。自分の愛情は、憎しみに負けるのか。
いや、負けない。
負けたくない。
宮津は自分が取り戻す。ヨンファを殺して、自分が宮津の運命になる。
気持ちは決まった。
竹中は腰のホルスターにブローニング・ハイパワーを装備した。

<7;現在・ヨンファ>


目の前のこと、すべてがすでにどうでもよかった。
自分が人間であったのがいつのことか、思い出せない気がした。
宮津隆史を失ったときに自分の半分は死に、そしてジョンヒを亡くして、もはや自分がこの世に存在する意味はなかった。

違う。まだ、やらなければいけないことがある。
未だ絶望を知らず、それでも知った気でいる宮津に本当の地獄をみせること。
「GUSOH」を開放するのはそれからだ。
狂っているかもしれない、ヨンファは自嘲の笑みを浮かべた。

竹中を、宮津弘隆の目の前で殺すのだ。
おそらくは相手も、同じことを考えているはずだった。
竹中がどれほど宮津を思っているか、宮津は知らない。
ヨンファは、「いそかぜ」に乗り込んですぐに、副長の竹中が自分と同じまなざしで宮津を見ていることに気がついていた。
宮津が無意識にその目を避けていることから、二人の過去に何があったか、押し計れた。
だから竹中の目の前で、宮津を抱いてみせたのだ。
ヨンファは竹中の反応に満足した。

案外ロマンティストだ、と心の中で自分と、竹中のことを笑った。
だが宮津には、自分の本当の気持ちも、竹中の気持ちもまるで見えていなかった。

宮津はいつも、なくしてから初めて答えを知る。
宮津の心の奥底を支えているものは、やはり憎しみではありえない。竹中を奪われて、宮津はようやく気がつくに違いない。
そしてそのときには、もう竹中は戻ってこない。
永遠の虚無。
それが、さいごまで自分を見ようとしなかった、さいごまで人であり続けた宮津弘隆への、復讐だと思った。

<8;現在・宮津>


「そこにいるだけで、行くべき道を示してくれる。・・・最後まであなたは我々の灯台でした。」
竹中の胸に迷いはなかった。
宮津を見つめて言いきり、引鉄をひいた。

一つだけ悔やまれたのは、自分でヨンファの息の根をとめることができなかったこと。自分の弾がヨンファの肩をかすめる光景をかすかに見ながら、竹中は倒れた。
それでも、竹中の思いは確かに宮津に届いていた。竹中はそれを、抱きあげた宮津の瞳で知った。十分な答えだった。
宮津の腕の中で、竹中は微笑んだ。
竹中の血が宮津の手を濡らし、宮津の心の中に融けていった。
竹中はゆっくりと瞬いた。

わかった。
ひざまずいた宮津はふたたび竹中を見た。
わかった。
一人で逝かせはしない。自分もすぐに逝く。

立ち上がって、これ以上苦しませまいと自らのブローニングで竹中を即死させ、宮津は誓った。

でも、その前に、自分にもう一つの結論を出しておかなければならない。
少しだけ、待っていてほしい。

すべてを失ったことを知った宮津は、硝煙でかすむ視界の向こうに、もう一度竹中の笑顔を見たいと思った。
遠い記憶だった。
夏の夕暮れの中で輝くように、自分だけにむけられていた、あの笑顔。
清清しい笑顔が、見たかった。

<9;追想>


痛み、というよりも、撃たれた場所から火がついたように身体が熱かった。
「副長に止められてしまった。」
倒れた自分のうえから降ってくるヨンファの声に、宮津の心が震える。
次の瞬間、艦内に爆発音が響き渡り、ヨンファは宮津にとどめを刺さずに出て行った。

たぶん、竹中はまだ、見ているのだ。 自分に最後の仕事をさせようと、してくれているのだ。
白い制服が徐々に朱に染まっていく。自分の身体にも、まだ赤い血が流れていることが、宮津には不思議だった。
どうやって身体を動かしたらいいのか、わからない。

管制室に仙石が入ってきたのは、そのときだった。
強い男。この艦の計り知れない暴走を、たった二人で止めようとした男。
宮津は仙石を見た。
目の前に立つ先任伍長と同じ血が、自分の中にも流れている。
その奇跡が、宮津の言葉を引き出した。

「専任伍長、操艦!」

仙石は敬礼でそれに応じた。
その背中に、一面の青い海が広がって見えた。
これでいい。海に還るのだ。
憎しみも、愛も、・・・すべてが。
宮津はようやく、目を閉じた。

<10;告別>


目の前に薄い紗がかかったように、周りの景色のすべてがぼやけていた。
まだこんなに手足を動かす力が残っている方が、不思議なのだ、と思った。もう、両腕の感覚がない。
最後の気力をふりしぼって、高速ガスタービン・エンジン、マリン・オリンパスの基部に設置された爆破装置をしっかりと確認する。
滴り落ちる血が、床の上に赤い点を描いた。
さようなら、《いそかぜ》。
応えるようなエンジンの振動に、宮津は目頭が熱くなった。
自分を、竹中を、ヨンファを、その他の多くの命を飲み込んで沈んでいく巨大な棺にしてしまうことを、許してくれ。
やはり憎みきれなかった。隆史を奪った日本を、ヨンファを、なにもかもを。
怨念も情念も、業火で焼き尽くしたい。
最後のわがままだ。
こうして一緒に逝くことが、生きて向き合うことができなかった竹中への、せめても償いなのだ。
・・・すまない。
三角巾で固定した腕で狙いを定め、ブローニングを引いた。
鮮やかな火花が散り、耳をつんざく音に覆われる。
・・・終わりだ。
宮津の意識は、遥かな光の中に飛んだ。
その向こうに、竹中の笑顔が待っているはずだった。
イージス艦は、ゆっくりとその姿を海に隠していった。

[END]


2005.11.1