◆◇◆Blue Christmas◆◇◆

「あーあ、やっぱり宿直代わってやりゃあよかったな・・・」

白い息とともに、松田は小さく呟いた。

12月24日。誰もが浮かれて、家族や友人、恋人たちと過ごす聖
夜。
街中はイルミネーションに飾られ、あちらこちらの店から、“ジン
グルベル”だの“聖しこの夜”だの“赤鼻のトナカイ”だの、楽し
げなメロディがうるさいほどに溢れかえっている。
雑踏の中を独り、肩を窄めて人混みを避けながら歩いていると、却
って寂しさが募り、いっそのこと宿直をしていた方がましだったと
思った。

『あーあ、今年もイブだってのに宿直かよぉ』

くしゃくしゃっと情けなさ気に崩れた源田のゴリラ顔が目に浮かん
だ。
『宿直じゃなくたって、予定があるわけじゃないんだろ』
ふふん、と鼻で笑って一人源田を刑事部屋に残してきたが、今頃
は、仔犬のような目をした兼子がケーキのひとつも買って刑事部屋
に戻っているだろう。
『おい、ゲン。お前、わかってんのか?ジンは、伊達や酔狂でこの
イブにお前のところに来るんじゃないんだぜ?』
松田は胸の中で、どこまでも鈍感な源田を思ってくすりと笑った。
『ジンも、あのゴリラの一体どこがいいんだかなあ・・・』

銜えタバコのまま、松田は、細い肩をさらに窄めてくっくっくと笑
いを零した。

『去年のイブは、どうしてたんだっけ・・・?』
今年も、事件に追われてめまぐるしく過ぎた一年を振り返り、ふと
松田は思った。
『ああ、そうか』
いつもなら煩いほどにまつわりついてきていた巽が、定時と同時に
ウキウキとデートへ出かけて行ったのを思い出した。
巽は署の中でも婦警に人気があったから、デートの相手の一人や二
人いてもおかしくはなかったが、その割にはついぞ浮いた話は聞い
たことがなかった。だから、どこかで安心していた。
何かといえば、松田にまつわりついていたから、イブなどといえ
ば、松田が「うん」と言うまで誘いをかけてきていたはずの巽が、
何も言わずにいそいそとデートに出かけていったとき、手酷い肩透
かしを食ったような気がしたのを覚えている。

男同士、何の約束もしていなかったのだから、肩透かしも何もなか
ったもんだが、松田はあの時、どこかで巽の誘いを待っていたの
だ。自分からは誘わない狡さを棚に上げて。
結局、取り残された松田は、兼子とともに宿直の源田に付き合う形
になり、ケーキだのチキンだのを買い込んできて、刑事部屋でひと
しきり騒いでからマンションに帰ったのだった。

『あのバカ』

松田は、くふん、と鼻を鳴らした。
深夜に近くなってマンションに戻れば、いつもの場所に見慣れたハ
ーレーが停まっていた。
階段を一気に駆け上がると、松田の部屋のドアに凭れて、寒さに身
を縮めて自分の肩を抱いた背の高い影があった。

『俺がデートって言えば、リキさんとに決まってんじゃん』

さも、当然のように言って笑ったバカなやつ。松田は、灰の方が多
くなった銜えタバコを、道端に投げ捨てると、新しいタバコを銜え
なおした。

『そんなの決まってやしねぇよ』

胸の中に呟いて、銜えタバコに火を点けた。

だけど、もう。もう二度と、巽は松田を誘うことはない。大晦日
も、元旦も、誕生日も、出会った記念日も、クリスマスイブも。

『なんで、独りで逝っちまったんだよ、タツ』

笑いさざめきながら通り過ぎていく人の群れに押しのけられるよう
に、気づけば松田は、一軒の花屋の前に佇んでいた。
明るい店内には、色とりどりの花々がさんざめくように飾られてい
た。
銜えタバコでぼんやりと店内を見回した松田の目に、ふと真紅の薔
薇が飛び込んできた。

『あいつ、赤が好きだったっけ』

いつもエロティックなほど体のラインにぴったりの黒いレザースー
ツを身にまとっていた巽は、パンツのヒップポケットに赤いバンダ
ナを必ず飾っていた。
そのさし色の赤の鮮やかさが、巽のセクシーさを際立たせていたの
を思い出す。

『愛してるよ、リキさん』

真紅の薔薇を一本差し出して、気障にウィンクを決めた巽の顔。
少女よりもドキドキとときめいたのに、口では「バカ言ってろ!」
なんて、答えちまったっけ。
あの引き締まった胸に抱かれて、何度聞いたか分からない睦言。も
う二度と聞くことのない甘い言の葉。取り戻せない温もり。
あのころは、喪うことなんて想像もしていなかった。
突然の突風に攫われるように、ある日目の前からいなくなってしま
った恋人。

『そういや、俺、お前にちゃんとさよならを言ってなかったよな』

巽を庇って撃たれ、長く入院していたために、結局松田は、巽の通
夜にも葬式にも出てやれなかった。そのまま、巽の死を受け入れる
のが嫌で、墓参りすらしていない。もちろん、巽が息絶えた場所に
など足を向けようともしたことがなかった。

『あの場所、どこら辺だって言ってたっけか』

ふと、哀しい天使が舞い降りたようだった。
一年近くも無理やり目を逸らしてきた現実に、向き合ってみる気に
なった。それは、ある意味、聖夜にふさわしいことかもしれなかっ
た。
松田は、店に足を踏み入れると、ありったけの真紅の薔薇を買い込
み、花束を作ってもらった。

両腕にいっぱいの真紅の薔薇を抱えた松田は、傍目から見れば、ク
リスマスイブに愛しい恋人に愛を告げに行く幸せな男に見えたに違
いない。
それは、ある意味、真実ではあったかもしれない。松田は、巽に最
後の愛を告げに行こうとしていたのだから。

源田たちから聞かされていた保育園近くの空き地の傍らに立ち、暗
闇に目を凝らす。空き地の向こうの家々には暖かな明かりが灯って
いる。ケーキとささやかなご馳走を囲んで、幸せなクリスマスを迎
える家族、家族、家族・・・。

『俺たちには縁のないもんだったんだよな、始めから』

苦い笑みが、松田の口元に浮かんだ。
両腕いっぱいに抱えてきた真紅の薔薇の花束をそっと足元に供え
た。巽が息絶えた本当の場所は、ここまで来ても分からない。

『最低の恋人で、悪ぃな、タツ』

ふと、鼻の奥がつんと痛くなった。目が潤みそうになって、慌て
て、すんっと鼻をすすり上げた。
泣きたくなかった。せっかく拾ってやった命を、簡単に捨ててしま
った巽のためになんか泣いてやりたくなかった。
分かっている。巽は、刑事として使命を全うしただけなのだ。その
若い命を懸けて。
だから、本当は、褒めてやらなければならないのだ。「お前、最高
の刑事だったよ」と。
だが、松田にはできなかった。

『大馬鹿野郎』

松田は、胸の中に叫んだ。

『文句があるなら、脚がなくてもいいから出てきやがれ!』

ぽろり。大粒の涙が、松田の頬を転がり落ちた。

『バカタツ!お前が独りで逝っちまうから、俺を独りにしちまうか
ら、目から鼻水が出て来やがらあ』

一度溢れた想いは、もう止めることができなかった。
「タツ、タツ、タツ・・・」
しゃくりあげそうになる息を整えて、松田は歯を食いしばった。

『俺、お前にちゃんと愛してるって言ってやったことなかったな』

「ごめんな、タツ。愛してるよ」
松田は、涙が零れないよう、夜空を見上げて囁いた。
冬の澄んだ空気に星がきらきらと瞬く夜空を、一際輝く星がすっと
流れていった。

『リキさん、愛してるよ。俺、ずっとそばにいるから』

巽の甘い囁きが耳元を掠めていった気がした。
凍てつく夜の空気がふわりと揺れて、仄かに温かい風が松田の細い
体を柔らかく包み込んで、名残惜しげに吹き抜けていった。

「さよなら、タツ。もう二度とは言わない、愛してるよ」

見上げた夜空から、ひらひらと冷たい星のかけらが、巽の返事のよ
うに舞い降りてきた―――。

[END]


2008.12.24